ローカライズされない味

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南蛮菓子から考えるポルトガルと日本

大学時代の同級生でベルリンに住んでいる友人が一時帰国しているというので会ってきた。話すうちに、ベルリンに住んでいると思っていた彼は、数年前にポルトガルはポルトに転居していたことがわかった。彼によると、ポルトはベルリンに比べて物価も安く、のんびりとした雰囲気だそうだ。タコやイカといった海の幸はいうまでもなく、野菜もそのものが美味いので、オリーブオイルと塩があれば十分とのこと。しかしなぜか胡椒がないんだよな、とも。タコは冷凍したものを何時間も茹でるそうで、日本で食べるそれとは歯ごたえがまったく異なるというのにも驚いた。商店はそれぞれが何かに特化した専業形態がほとんど。ホームセンターのようなものは郊外まで出ないとない。

 

ポルトガルという国名は教科書を通じて小さい頃から目にしているためか、我々にとっては不思議な親近感がある。もともとはポルトガル語だったものが日本語として日常的に使われている例も少なくないのはよく知られているところだろう。また、ここ数年でポルトガル料理のレストランの人気が高まっているので、訪れたことがあるという方もおられるかもしれない。とはいえ、そうしたこと以外の知識はあまりないのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。タコを冷凍してからグダグダ茹でるなんて初耳だ。

 

 教科書の中のポルトガルということでいえば、南蛮貿易とキリスト教伝来が浮かぶ。1543年、ポルトガル人を含む中国船が種子島に漂着。このとき鉄砲(火縄銃)の技術が日本に伝わることとなった。ついで1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってくる。キリスト教の伝来である。ポルトガル王国(当時)はいわゆる大航海時代の先駆として繁栄を極めており、南アフリカの喜望峰到達やインド航路の開拓、ブラジルの発見などにとどまらず、東南アジアにも進出。マカオの使用権を獲得し、そこを拠点としてポルトガル、明(中国)、日本の貿易が行われるようになった。こうして始まった南蛮貿易は、織田信長、豊臣秀吉らが推進派であったこともあって、当時の日本文化に少なからず影響を与えたという。「室町・安土桃山時代から江戸時代に至るまで、ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えました。例えば、16世紀末、豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用し、家臣にも勧めたと言われています。京都では、ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが、庶民の間で大流行し、南蛮モードを安価で仕立てる店まで出現しました」(外務省ホームページ「わかる! 国際情勢」Vol.62「ポルトガルと日本~海がつないだ友好の絆」より)。いうまでもなく、ポルトガル語が日本語に転じるという事象もこの頃から生じている。江戸時代に入り、家康公のときまでは南蛮貿易は行われていたが、家康没後は鎖国が成立し、長崎・出島に居留していたポルトガル人は追い出されて、出島はオランダ、唐(中国)との貿易の窓口になり、南蛮貿易は終了することとなった。

 

先に記したように、ポルトガルからは貿易や人の往来を通じて様々な影響を受けてきた日本だが、味覚の面でもその影響は大きかった。砂糖がもたらされたのである。「当時の日本では、砂糖はほとんど使われておらず、甘味料としては、こうじ、はちみつや干し柿などの果物類が用いられていました。今、潤沢にある砂糖は、南蛮貿易により、ポルトガルから長崎の地にもたらされたものでした」(独立行政法人農畜産業振興機構ホームページ 砂糖類情報「出島からシュガーロードを通って全国へ~お砂糖と共に発達したお菓子や食文化~」より)。カステラやボーロ、コンペイトウといった菓子類がポルトガル語出自ということは有名だが、これらの原材料のひとつである砂糖がなければ日本で独自に作ることはできなかった。こうして長崎に入ってきた砂糖はやがて全国流通することになり、鎖国後、ポルトガルを締め出し、オランダ船、唐船によって砂糖が運ばれるようになっても長崎が窓口として変わらず機能していたのである。

 

長崎に入ってきた砂糖は、ほかの輸入品と同様、船で大阪に運ばれ、そこから江戸をはじめ全国へと流通された。これが正規ルートだが、長崎から現在の佐賀、福岡を通る「長崎街道」というおよそ228キロメートルに及ぶ脇街道を通るルートもあった。長崎市のホームページによれば、長崎街道は「九州各地の大名たちの長崎警備や参覲交代、オランダ商館長の江戸参府、海外からの品々や技術・文化を京・大坂、江戸へと運ぶための街道」であったという。輸入された砂糖の一部は、この長崎街道を通じて流通されたので、現在では「シュガーロード」とも称されている。

 

 長崎街道近辺にはカステラ(長崎県長崎市)、小城羊羹(佐賀県小城市)、マルボーロ(佐賀県佐賀市)といった菓子の製造販売を古くから行うところが多く、各地の名物となっているが、これは砂糖の流通経路と大いに関係があるのだろう。そうした中で興味深いのは、福岡の銘菓「鶏卵素麺」である。素麺とあるが、れっきとした菓子。ポルトガルの菓子「フィオス・デ・オヴォス(卵の糸)」が安土桃山時代に日本に伝わってこの名となった。ポルトガル出自であるから、最初の入り口は当然長崎である。では、どうして福岡銘菓になったのか? これには先に述べた長崎警備が関係しているようだ。

 

鎖国によってポルトガルを排斥したはいいが、報復が怖いということで、幕府は1641年(寛永18年)福岡藩に、翌年佐賀藩にも長崎港の警備を命じ、以後2つの藩が交代で長崎の警備を行うようになった。これが長崎警備である。警備の際は藩兵を長崎に派遣しなければならないなど、福岡藩と佐賀藩にとって負担は少なくなかったが、外国との唯一の接点であった長崎から得られる海外の情報や技術、文化などに触れられるという利点もあった。そんな中、福岡藩の松屋利右衛門が警備に関連して訪れた長崎で中国人鄭氏より鶏卵素麺の製法を学び、博多に戻って製造販売を開始した。1673年(延宝元年)のことである。この延宝年間には時の福岡藩藩主・黒田光之に鶏卵素麺を献上し、以後御用菓子商となった。これが、長崎に伝来したポルトガル菓子が福岡の銘菓になった機縁である。

 

松屋利右衛門の御用菓子商は「松屋菓子舗」として長らく続いていたが、売上減から2012年に自己破産。翌年に鹿児島の和菓子製造販売の「薩摩蒸気屋」が工場設備を買い取って生産を再開する一方で、第13代松屋利右衛門(代々、名前を受け継いでいる)が「松屋利右衛門」の屋号で再スタートを切った。今回買い求めたのは、この「松屋利右衛門」のものである。

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鶏卵素麺は、煮立った糖蜜の中に卵黄を糸状に流し込んで素麺のようにしたもの。細長く仕上げるには熟練の技術が必要だ。それをまとめて箱に入れて販売している。ふたを開けると、甘い卵焼きと同じような匂いとともに、オレンジがかった黄色が目に飛び込んでくる。一見すると沢庵のような雰囲気である。

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食べ方としては、(長い辺に対して直角に)短く切ってというのもあるそうだが、端からほぐしてくるりと巻いてみた。菓子というよりは、キャロットラペのような見えがかりだ。味はというと、はじめは甘みが強烈なのだが、すぐに卵黄の風味とコクが混ざり合って、味に奥行きが出る。砂糖と卵黄だけしか使用していないので、実に素朴な味わいだ。そのままいただくのももちろんいいが、たとえばバターをたっぷり塗ったトーストに鶏卵素麺をのせて、なんていうのもいけそうである(激しく高カロリーだが)。ポルトガルでは、そのまま食すだけでなくケーキなどのデコレーションとしてもポピュラーだそうだ。

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ルーツを同じくするものが様々な国、地域において発展してゆくということは、とりもなおさずオリジナルを生み出した(あるいは生み出しはせずに見出した)国なり地域なりの「力」を明らかにする。高度に情報化が進んだ現在で、情報の一次ソースを探すのはなかなか困難である(つまりコピー&ペーストの海ということ)のとは対照的に、人が何らかの理由でその土地を訪れなければ情報や技術が伝わらなかったからである。フィオス・デ・オヴォスに関していえば、長崎~福岡のほか、ブラジル、マカオ、スペイン、メキシコ、タイなどにも存在しており、極めてシンプルなその素材と製法ゆえ、どこでもオリジナルとほぼ変わらないかたちで作り続けられている。その土地の風土に合わせてローカライズされることがないというのは、実に興味深いところである。安土桃山時代、長崎に伝わったフィオス・デ・オヴォスがポルトガルでいつから作られているかは調べきれていないが、私たちは少なくとも安土桃山の人が口にしたのと同じ味を楽しんでいるわけで、それは結構すごいことではないだろうか。

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松屋利右衛門

※掲載情報は 2016/09/27 時点のものとなります。

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青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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