菊人形の頃

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団子坂の菊人形に端を発した老舗せんべい

「わたくしも暫く団子坂へは行きませんが、新聞なぞを見ると、菊細工はますます繁昌して、人形も昔にくらべるとたいへん上手に出来ているようです。しかし団子坂の菊人形を見物に行く明治時代の人達は、三十余年前にここで異人を殺してしまえと騒いだり、狐使いが殺されたりした事を夢にも知りますまい。」(岡本綺堂「半七捕物帳 菊人形の昔」)

 

先の「菊人形の昔」によれば、団子坂の菊人形は江戸でも古いものではなく、「文化九年の秋、巣鴨の染井の植木屋で菊人形を作り出したのが始まりで、それが大当たりを取ったので、それを真似て方々で菊細工が出来ました」。一時期、菊人形といえば団子坂の代名詞のようになっていたが、「団子坂の植木屋で菊細工を始めたのは、染井よりも四十余年後の安政三年だと覚えています」。

 

菊人形とは何か。頭部と手足こそリアルな人形だが、その衣装は菊の花によってできているものである。歌舞伎の名場面などを再現し、明治9年(1876年)からは東京府に請願し木戸銭を取るようになって、東京の秋のはじめを彩る一大見世物イベントに成長した。ちなみに、「菊人形の昔」は、菊人形が飾られて大賑わいの団子坂に、横浜居留地に来ていた英国の商人が馬で乗り付け、あまりの混雑から馬を近くに置いて(今よりも道幅がぐっと狭かったので馬で入れなかった)再び団子坂へ戻ってきたところでポケットの紙入れを女にスラれるという事件と、年老いた「市子」(死霊や生霊の口寄せをする女性)ふたりの確執、そして馬泥棒が複雑に絡み合う話である。冒頭に引用した「ここで異人を殺してしまえ」は、紙入れを盗んだ女が何も取った覚えはないと言ったのをうけて、野次馬がイギリス人を攻撃したというエピソード、「狐使い」は「市子」のことを指す。この「菊人形の昔」だけでなく、夏目漱石「三四郎」や、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」にも団子坂の菊人形に触れている箇所があるので、ご存知の方も多いかもしれない。

 

明治に活況を呈した団子坂の菊人形だが、明治42年(1909年)、本所の両国国技館で電気仕掛けの菊人形を導入した興行が行われると一気にそちらに客を取られ、明治44年(1911年)が最後の興行となった。東京ではそうであったが、その後、名古屋や岐阜の興行師が菊人形を広め、現在でも各地で菊人形展が催されているという。

 

都内では湯島天神で「湯島天神菊まつり」が開催されているが、武田百合子は『日日雑記』にて、この湯島天神の菊まつりについてこう書いている。「坂の途中にある天神様で、菊人形と菊の展覧会をやっていた。よしずで囲い、さしかけの屋根から紫の幕を垂らした舞台に、その年のテレビ大河ドラマの主人公たちや歌舞伎や物語で名高い人物が、お城や紅葉の木や夕焼の山々などを描いた背景の前に、菊の着物を着せられ、それぞれに見得をきり硬直していた」。現在の湯島天神の菊まつりもほとんどといっていいほど変わっていない(『日日雑記』の初出は1988年から91年にかけての雑誌連載)。

 

では、団子坂の菊人形はすっかり廃れてしまっているかというと、昭和59年(1984年)から大圓寺境内にて「谷中菊まつり」として菊人形の展示、薪舞(たきぎまい)、菊市などが催されており、規模こそ湯島天神には負けるが、その面目を保っている。

 

さて、再び明治の賑わいに時計の針を戻そう。秋口の団子坂、菊人形を一目見ようと方々から多くのひとが集まってくるわけだが、そうした菊人形見物客を相手に、明治8年(1875年)団子坂下に創業したのが「菊見せんべい総本店」だ。

 

「藍染川と団子坂との間の右側に、『菊見せんべい』の大きな店があった。ひろい板じきの店さきに、ガラスのついた『せんべい』のケースがずらりと並んでいた。ケースの上に菊の花を刷って、菊見せんべいと、べいの二つの字を万葉がなで印刷したり、紙袋が大小順よくつくられている」(宮本百合子「菊人形」)。

 

プロレタリア作家として知られる宮本百合子は明治32年(1899年)、東京市小石川区に生まれた。「菊人形」に描かれているのは、おそらく団子坂の菊人形ブームの後半であり、菊見せんべい総本店が創業してから30年ほど経過した頃であろうが、現在の店の様子も、当時と大きくは変わっていないように思う。大きく開けた間口に正面切って年季物のガラスケースがどすんと置かれ、なかにはせんべいと江戸まき(海苔巻)ががさっと入れられている。ガラスケースの上には、あられの入ったガラス瓶や詰め合わせが並ぶ。

 

せんべいは醤油、甘、茶、唐辛子の4種類。丸ではなく四角であるのが特徴的な手焼きせんべいである。宮本百合子の「菊人形」には、「店の板じきの奥に向いあって坐ってせんべいをやいている職人たちの動作がすっかり見えた」と記されている。今は焼いているところを見ることはできないが、昔から変わらない実直な仕事ぶりがせんべいそのものから十二分に匂いたってくる、江戸っ子好みの堅焼きである。

菊人形の頃

ガラスケースのなかのせんべいは、それぞれ一枚から買うことができるので、好みの枚数を伝えれば手際よく袋に詰めてくれる。手土産用に箱詰めもある。また、持ち帰りでなく、一枚買って店の前の縁台で頬張るのもいいし、子供の頃の買い食いよろしく街歩きのお供にするのもいいだろう。ちなみに菊見せんべい総本店には、せんべいやあられのほか、菓子パン、調理パンも売られているのだが、これは第二次世界大戦の米不足から始まったそうである。

菊人形の頃

ところで、菊人形はちょっと怖い。その印象は、市川崑の『犬神家の一族』(1976年)からきているのかもしれないが、顔や手足は実に精巧で生々しいところと、仏花のイメージがついてまわるということもあるだろう。「子供心に恐かったのが佐倉宗五郎や『牡丹灯籠』の見世場で、あれが天保の泉目吉の変死人形の面影を伝えているのだろうか」(種村季弘「生人形変相」)とあるように(これは戦前の頃と思われる)、華麗な見世物だけでなく、怖いものもあった菊人形はつまり、様々な角度から鑑賞者に驚きを与えるものだったに違いない。かつての団子坂で、そうした驚きの場面を見ながら菊見せんべいを頬張るひとがいたのを想像すると、ホラー映画を観ながらポップコーンやらスナック菓子を口に運び続ける感覚と繋がっているように思えてくるから面白い。

 

されば来たるべき秋の夜長、好みの菊見せんべいと恐怖映画で過ごす、なんていうのが現代の楽しみ方かもしれない。観るなら、三遊亭円朝の「真景累ヶ淵」を下敷きにした2007年の映画『怪談』などはどうだろう。円朝の墓がある「全生庵」は、菊見せんべい総本店からほど近いところにある。

せんべい

菊見せんべい総本店 住所:東京都文京区千駄木3-37-16

※掲載情報は 2015/08/21 時点のものとなります。

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青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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