相撲の街、バカンスの入口

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意外な組み合わせがクセになる両国銘菓

両国駅といっても、JRと都営地下鉄大江戸線では近隣の風情がまるで違う。全線開通が2000年と、新しい路線である大江戸線の両国駅は清澄通りの地下、つまり南北に延びており、JR両国駅は京葉道路と並行、つまり東西に横たわっている。互いに連絡しているわけではないので、同じ駅名でも完全に別ものなのだ。


ここ数年で、私は年に何度か両国に足を運ぶようになった。IFIというファッション系のビジネススクールの講師を務める機会があるからだ。このIFIは大江戸線の両国駅A1出口すぐの第一ホテル両国のビルにある。A1出口は最も北側に位置しており、地上に出たときに目に映る景色はさほど情緒のあるものではないのだが、清澄通りを南下して江戸東京博物館を通り過ぎ、総武線のガードをくぐったあたりから、少しずつ風景が変わってゆくから面白い。京葉道路との交差点に出ると、「キングサイズ」という文字と力士の絵が看板に並ぶ「ライオン堂」という店が目に入る。そう、両国といえば相撲の街である。

 

相撲の街の由来は、江戸時代後期にまでさかのぼる。日本一の無縁寺として知られる回向院境内にて寛政年間から行われていた霊供養のための勧進相撲がそのはじまりである。回向院は京葉道路を隅田川方面に向かった両国二丁目の信号近くにあり、初代の国技館は1909年(明治42年)、この敷地内に建てられた。現在の「両国シティコア」がある場所である。1917年(大正6年)の火災で一度焼失し、1920年(大正9年)に再建するも、1923年(大正12年)の関東大震災では外観を残してはいたが再び焼失してしまった。その後、再建を果たすが、第二次世界大戦時には帝国陸軍に接収されて風船爆弾の工場として使用され、1945年(昭和20年)の東京大空襲でまたも焼失してしまう。敗戦後はGHQが接収し、「メモリアルホール」の名称で再スタートを切るが、大相撲の会場としての使用は1946年(昭和21年)が最後。紆余曲折の後、老朽化を理由にこの旧国技館は1983年(昭和58年)に解体された。

 

現在の両国国技館は1984年(昭和59年)、国鉄用地であった旧両国貨物駅跡地に建設、翌年に落成式が行われて相撲興行が両国に戻ってくることとなった。ちなみに、現在隣に並ぶ江戸東京博物館は1985年(昭和60年)に建設予定地の譲渡を国鉄に申し入れ、国鉄が分割民営化された後の1988年(昭和63年)に建設予定地の買収契約を清算事業団と締結。1993年(平成5年)に開館している。

 

そんな事情から、相撲にちなんだ古い店は、JR両国駅の南側に多い。1929年(昭和4年)以来、相撲協会御用達の写真館を務めていた工藤家が自邸の駐車場を改装して設えた「相撲写真資料館」や、その名の通り旧国技館の近くにある「両国國技堂」などがそうだ。両国國技堂の名物は、土俵の俵のかたちをした「あんこあられ」。パッケージにも土俵と力士の絵がどーんと配されている。

相撲の街、バカンスの入口

同じ形状だが、揚げたあられをつかった「揚げあんこあられ」もあり、店頭の目立つところに並べて置かれている。両方買い求めてみることにした。

相撲の街、バカンスの入口

一口サイズのあられにこしあんを詰めた「あんこあられ」と「揚げあんこあられ」、食べてみるまで味の想像がつかなかったが、「あんこあられ」はしょうゆ味、「揚げあんこあられ」は薄い塩味で、あんの甘みと絶妙に混ざり合う。味のコントラストでいえば「あんこあられ」の方に軍配があがるだろうか。どちらも食感の妙も味わえる品である。

相撲の街、バカンスの入口

ところでこの両国國技堂、あられの製造販売を開始したのは1975年(昭和50年)頃だそうだ。なんだそんなに古い店じゃないじゃないか、と思われるかもしれないが、さにあらず。1923年(大正12年)にこの地に開店した果物店「鈴清」が両国國技堂のルーツである。先に述べたように、旧国技館が回向院の敷地にあった時代、このあたりが相撲観戦客で賑わっていただろうことは想像に難くない。しかし、ご存知のように大相撲は年中行われるわけではない。では、何が「鈴清」を支えていたかというと、千葉方面に向かう電車の乗客であった。

相撲の街、バカンスの入口

JR両国駅は、1904年(明治37年)、千葉方面への路線を持つ私鉄、総武鉄道の駅として開業した。当時の駅名は「両国橋駅」。初代の駅舎は関東大震災で焼失し、仮駅舎で営業していたが、1929年(昭和4年)に新駅舎が完成した。現在、私たちが目にしている両国駅はこの当時に作られたものである(昭和6年に「両国駅」と改称)。多少の浮き沈みはあったものの、両国駅は、1970年代初頭までは房総方面へのターミナル駅として非常に重要な位置を占めていた。とりわけ夏場は避暑や海水浴のために房総方面を訪れる人で相当な混雑ぶりだったという。おそらく、こうした客が「鈴清」に手土産の果物を買いに訪れたのだろう。ところが、1972年(昭和47年)に総武本線の複々線化が行われ、東京駅の地下ホームから総武快速線の運転が開始されると、総武快速線が停車しないこととなり、次第に両国駅は衰えをみせていったのである。これに加えて、スーパーマーケットの普及により、果物が手軽に入手できるようになったのも、「鈴清」があられの製造販売に移行することの一因となっている。

 

「鈴清」は、両国に国技館が戻ってきた1985年(昭和60年)に屋号を「両国國技堂」と改め、2009年には2階に甘味処を設け、現在の店構えになった。甘味処では牛乳で作ったアイスクリーム(ソフトクリーム)にあられを入れた「おせんべいアイス」も人気だという。1階のレジで「あんこあられ」を買い求めていたら、豆かんが目に入ったのでこちらも合わせて購入することにした。豆かんはやや小ぶりの寒天と、堅めの豆の食感のコントラストがいい。こちらは夏場の手土産にもよさそうだ。両国は相撲の街でもあり、かつては夏のバカンスの出発点でもあった。そんなことに思いをめぐらせながら2階で甘味に舌鼓をうつのもまた一興かと思う。近くには回向院のほか、「芥川龍之介生育の地」の碑もある。芥川は生まれは京橋の入船だが、生後7ヶ月で本所に転居し、20歳頃までは彼の地に暮らしていた。晩年のエッセイ「本所両国」には、当時と過去のこのあたりの様子、人々が記されている。


住所:東京都墨田区両国2-17-3
電話番号:03-3631-3856

あんこあられ、揚げあんこあられ

両国國技堂 住所:東京都墨田区両国2-17-3

※掲載情報は 2016/06/04 時点のものとなります。

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青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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