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しっとりした甘さの後を引く優しい甘納豆
現代は砂糖にとって受難時代である。肥満や生活習慣病・糖尿病や虫歯の原因、骨を弱くするなどと目の敵。しかし、歴史を辿ると砂糖は渇望の代表でもあった。今回、紹介する商品は甘納豆で、砂糖とは切っても切れない関係なのだ。甘納豆を最初に開発したのは、『榮太郎總本舗』の創業者、細田安兵衛(初代日本橋榮太郎)で、安政4年(頃)に甘納豆の元祖である「甘名納糖」を売り出したといわれている。安政4年というと2年前には「安政の大地震」があり、井伊直弼が大老になり「安政の大獄」を行い、騒々しい幕末で明治維新までカウントダウン10年の年であった。日本では砂糖は貴重な存在で、「薬種屋」で滋養の薬として売られており高価なものだった。
鎖国の江戸時代には砂糖は長崎を通じて輸入されて国内で流通されていたが、砂糖の代金として、金・銀・銅が国外へ流出することについて幕府も危惧し、幕府は輸入制限を行って砂糖の国産化の方針を打ち出し、サトウキビの作付けを全国に奨励しはじめた徳川吉宗の「享保の改革」の頃の話だ。砂糖が高価とはいえ、江戸後期には国産砂糖が広まり和菓子の発達を促し、「甘名納糖」はそんな時代に生まれたのである。明治になって、日清戦争の結果、1895年に台湾を植民地として獲得し、台湾に国策として近代的な製糖工場を設立し1902年から稼働した。
これにより、日本の砂糖製造は大正期以降自給率90%を超えることになるのであるが、日中戦争に突入した1937年が戦前の供給のピークだった。砂糖は贅沢品として1940年になると配給統制が全国で実施され、さらに戦火が厳しくなると菓子配給切符制、砂糖消費税の増額、家庭用配給の停止と続き終戦後の砂糖の1人当たりの供給量は0.11kgで江戸時代末期の砂糖消費量より低かったのである。戦後にキューバの砂糖が、主食代替食糧として配給されたのだが、この話は亡母から聞いたことがある。母は戦後田舎の青年団の事務をしていた時に、進駐軍から大量の砂糖が届き各家庭に1俵単位で配ったそうで、一番年下の妹はこの砂糖を主食代わりにして食べて、砂糖のカロリーのせいか姉妹の中で一番大きく育ったと。そのように日本全国で甘いものを渇望していた時代に、神楽坂に和菓子販売と甘味を売る店が誕生した。
神楽坂は東京でも有数の花町で1945年の東京大空襲で灰燼したが、戦後、花柳界が復活してくると和菓子や甘味の店も同時に増えてきたのだった。神楽坂の毘沙門天近くの坂の途中に御菓子司『五十鈴』があり、ここの看板商品が「甘露甘納豆(かんろあまなっとう)」なのだ。この甘納豆を最初に教えてくれたのは、神楽坂で編集ライターの仕事をしていた女性だった。甘納豆は昔から好きで、色々な店の味を愉しんでいたが、ここの味に出会ってからは、神楽坂に所用でくる時は『五十鈴』に立ち寄るようになった。軟らかく炊いてあるのに煮崩れしないしっとり感は素晴らしく、北海道産の大納言小豆をじっくりと煮て、蜜の糖度を少しずつ高めて含ませ、出来上がりまで4日間もかかるのだそうだ。
甘納豆は和菓子の中でもこれ以上シンプルなものは無いと思うのだが、シンプルゆえにごまかしの利かない商品でもある。「甘露甘納豆」を器に盛りつけて、スプーンに大盛りにして口に運んで咀嚼していると、小豆の旨さもそうだが、やはり砂糖の甘さが引きでて舌が喜ぶのだ。江戸時代には「甘い(あまい)は甘い(うまい)」は同義語だったのである。
参考文献(日本における甘味社会の成立-前近代の砂糖供給-鬼頭 宏)
http://dept.sophia.ac.jp/econ/data/53-03.pdf
※掲載情報は 2018/07/21 時点のものとなります。
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キュレーター情報
アートディレクター・食文化研究家
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
後藤晴彦は、ある時に料理に目覚め、料理の修業をはじめたのである。妻のことを“オクサマ”とお呼びし、自身はお手伝いハルコと自称して、毎日料理作りに励んでいる。
本業は出版関連の雑誌・ムック・書籍の企画編集デザイン制作のアート・ディレクションから、企業のコンサルタントとして、商品開発からマーケティング、販促までプロデュースを手がける。お手伝いハルコのキャラクタ-で『料理王国』『日経おとなのOFF』で連載をし、『包丁の使い方とカッティング』、『街場の料理の鉄人』、『一流料理人に学ぶ懐かしごはん』などを著す。電子書籍『お手伝いハルコの料理修行』がBookLiveから配信。
調理器具から食品開発のアドバイザーや岩手県の産業創造アドバイザーに就任し、岩手県の食を中心とした復興支援のお手伝いもしている。