上方くだり

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シンプルだが奥深い人形町の老舗の味

市場がある、というイメージからか、築地はなんとなく遠いと思っている方も少なくないだろうが、実際は銀座から歩いて行ける距離にある。晴海通りを南東方面に進んで、歌舞伎座が見えたらもう半分は来ていることになる。新大橋通りとの交差点が築地四丁目。左に目を移せば、築地本願寺の特徴的な建物(本堂と呼ぶよりも建物の方がしっくりくる)が視界に入るはずだ。新大橋通りを右に曲がると築地場外市場で、その先には築地市場、正確には中央卸売市場築地市場がある。

 

ある土曜日、ふと思い立って築地に足を向けた。今年11月に豊洲へと移転を控えた中央卸売市場がまだ築地にあるうちに、このあたりを見ておこうと思ったからだ。土曜の昼過ぎということもあって、築地場外市場は観光客で大賑わい。何を買うともなくそぞろ歩き、空腹を覚えたので、客引きをしていない店に当てずっぽうで入り、鮪丼をいただいた。なかなか旨かった。

 

いわゆる「場内」は豊洲に移転が決定しているが、場外市場は移転しない。築地場外市場公式ホームページには、5月9日の日付で「これからの築地」と題した文章が公開されており、こちらによれば「築地場外の400店舗はもちろんのこと、2016年10月にオープンする市場施設『築地魚河岸』に入居する、場内市場の仲卸約60店舗も引き続き築地で商いを続けます」とある。ご存知のように場内はプロ向け、場外は一般客向けと分かれており、場内あっての場外、といったところもあったかと思うが、そうしたバランスはこの秋に崩れてゆくことになる。そう考えると、何らかの場外的な施設は作るようではあるが豊洲の方は一般客の足が遠のいてしまうのではと心配になってしまうが、いかがなものだろうか。

 

昼食後に波除神社にお参りし、再び晴海通りに出て勝鬨橋を渡った。勝鬨橋は、隅田川の最下流に架かる橋。1933年(昭和8年)に着工し、1940年(昭和15年)に完成した跳開式のこの橋は、国の重要文化財にも指定されているものである。約250メートルの勝鬨橋を渡った先は、中央区勝どきだ。「◯◯タワー」などと命名された高層ビルが目立つが、都営勝どき二丁目アパートや同五丁目アパートなど、1960~70年代に建設された建物もまだ少し残っている。勝どき橋交番のところを左に折れて進むと西仲橋。下を流れる人工の運河である月島川には小型船がぷかりぷかりと浮かんでいる。春には両岸が桜の花でいっぱいになるようだ。橋の名前でピンときた人がどれ程だかはわからないが、この橋を渡ってそのまま行けば西仲通り商店街、通称月島もんじゃストリートである。

 

築地場外市場で多く見かけた外国人客は、もんじゃストリートには数えるほど。もんじゃ焼きを目指して来た女性複数のグループやカップル、家族連れが目立ったが、地元の人も決して少なくはない印象だった。清澄通りと隅田川に挟まれたこのエリアは、低層の木造家屋がまだたくさん残っていて、そうした様子を路地から覗くのも楽しい。この風情ともんじゃがうまく噛み合って、各所から人を呼び寄せるのであろう。同じ古い街並みということでいえば渋谷ののんべえ横丁や新宿のゴールデン街もあるが、そちらは断然夜の街。それにひきかえ月島は昼間から賑やかで、それゆえ来街者はより多様なものになっているのである。

 

西仲通り商店街の端まで行くと、大きな通りに出る。この通りを越えると中央区佃である。これまで述べてきた勝どきと月島、それに佃の一部は、1883年(明治16年)から1896年(明治29年)にかけて行われた「東京湾澪浚(みおさらい)工事」によってできた人工島。隅田川からの土砂により東京湾が浅くなってしまったのを掘り返し、その土砂で造成したものだ。現在の月島一丁目から四丁目は月島一号地、勝どき一丁目から四丁目は月島二号地、佃二丁目の一部と三丁目は新佃島と称されていて、その後、勝どき五丁目、六丁目が月島三号地として造成された。

 

新佃島と呼ばれるからには、もともとの佃島がある。現在の佃一丁目がそれだ。佃一丁目=佃島も造成地ではあるが、造られたのは江戸時代。摂津国佃村の漁師が江戸へ移住、鉄砲洲東側の砂州を拝領し、そこの四方を石垣で固めたのが佃島である。ちなみに現在の佃二丁目にあたるエリアは、もともとは船出頭の石川氏が1626年(寛永3年)頃に拝領した土地で石川島と呼ばれ、その後石川島と佃島の間に自然にできた半陸地を埋め立てて「人足寄場」(軽犯罪人の更正施設)とした。石川島だった佃二丁目には高層ビル群「大川端リバーシティ21」が建っているが、佃一丁目は昔の面影を色濃く残したままである。

 

まわりに高層ビル群があることで、佃一丁目はまるでミニチュアの街のように思えてくる。と同時に、自分の身体もみるみる小さくなって、おまけに時間も遡ってしまったような錯覚に陥る。昔見たような街並みの中、泥だらけのユニフォームを着たまま駄菓子屋(本当に駄菓子屋なのだ)で買い食いをする野球少年。住吉神社に関係しているのだろうか、揃いの浴衣をまとった若い男衆が目の前を歩いてゆく。ポンプ式の井戸がある。佃小橋の船溜まりでは、小学生が釣り糸を垂らしていた。聞けばハゼが釣れるのだという。釣ったハゼは唐揚げにして食べるそうだ。まるで自分が子どもの頃と同じではないか。

 

少年たちは唐揚げにするそうだが、ハゼは佃煮も美味しい。以前紹介した浅草橋の「鮒佐」は秋から並ぶが、人形町の「ハマヤ」では今の時期にもあるという。後日、足を運んでみることにした。水天宮前駅から明治座方面に歩いてすぐのところにあるハマヤは、人形町で四代も続いているという老舗。ここでひときわ名高いのは「富貴豆(ふきまめ)」である。そら豆を清酒、醤油、みりん、砂糖で炊いた富貴豆は、黄金色をしていて、甘みの終わりに醤油の風味が香る。早い時間に売り切れてしまうという人気の品で、昼過ぎにお邪魔した頃には3、4パック(あらかじめ小分けにされている)しか残っていなかった。

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富貴豆とともに、今回の主役であるハゼの佃煮も首尾よく入手することができた。こちらは量を告げると売店横でその都度詰めてくれる。ハゼそのものは小ぶりの小ハゼだが、みっちりと詰まっていて重量感がある。醤油の塩気にみりん、砂糖、清酒がほんのりとした甘さを醸し出しながら、小魚特有の軽い苦味があって、白いご飯のお供にふさわしい飽きのこない味わいだ。このハゼの佃煮以外にもハマヤには数種類佃煮があるので、一通り試してみて好みの品を見つけるのもいいだろう。ちなみに富貴豆も佃煮も日持ちは一週間と、買い置きがきかないので注意されたい。

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佃煮発祥の地とされる佃島は、摂津国佃村の漁師が暮らし始めたことに端を発しているのは先に記したが、この摂津国佃村は現在でいう大阪市西淀川区佃町のこと。かたやハマヤのある人形町は、「元吉原」つまり新吉原以前の江戸の大遊郭であった。「土着の江戸女ばかりではじめた遊女屋は、柳町・元誓願寺経由の江戸町一丁目にあった。あとは、大坂、奈良、京都、伏見、駿河の弥勒寺から下ってきた上方勢である」(種村季弘『江戸東京《奇想》徘徊記』所収「人形町路地漫歩」)。圧倒的に男過多だった江戸に、上方勢の遊女が流入して元吉原は形成された。佃島も人形町も上方との所縁が強いのである。また人形町の呼び名(これは1933年に正式な町名になった)は、かつてこの地に人形浄瑠璃の人形遣いや頭作りの職人が多く暮らしていたことに由来するが、この地にさまざまな職種の老舗が多いのは、元吉原があったこととも無関係ではあるまい。遊郭が新吉原に移転後、芳町(現・人形町一丁目から三丁目)は花街として栄えたのであった。

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ハゼの佃煮、富貴豆

ハマヤ 住所:東京都中央区日本橋人形町2-15-13

※掲載情報は 2016/07/05 時点のものとなります。

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青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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