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名ホテルのアップルパイを東京で
とくに何ということはないときに、何となく読み返してしまう本というものは、誰しもいくつか思い浮かぶのではないだろうか。わたしにもそうした本は何冊かあって、そのうちの一冊が沼田元氣の『旅する少女の憩 箱根・湯河原篇』(京都書院アーツコレクション)である。フルカラーの写真に詩を組み合わせた本編と、「旅スル 少女ノ為ノ ディクショナリィ」と銘打たれた注釈からなるこの本は、ある少女がロマンスカーに乗って箱根、湯河原へと赴き、またロマンスカーに乗って東京へと帰る旅の情景を収めたものだ。箱根まんじゅうの売店、箱根ロープウェイ、大涌谷、三河屋旅館、福住樓、環翆樓、寄木細工の店、射的のあるお土産物屋など、昔ながらの姿をとどめるところで撮られた写真は、どれも郷愁(哀愁ではなく)があっていい。出不精で旅行とはあまり縁のないわたしにとって、『旅する少女の憩 箱根・湯河原篇』は、旅の過程で生じる心の動きを味わわせてくれる一冊なのだ。
この『旅する少女の憩 箱根・湯河原篇』において、前述のような撮影場所に加えて、最もページ数が割かれているのは、明治11年(1878年)創業の日本を代表するクラシックリゾートホテル、宮ノ下の富士屋ホテルである。明治24年(1891年)竣工の本館、昭和11年(1936年)竣工の「花御殿」など、登録有形文化財に指定されている建物が今なお現役で稼働している富士屋ホテルだが、『旅する少女の憩 箱根・湯河原篇』では、客室(おそらく花御殿であろう)、室内温泉プール、温室、レタールーム、メインダイニング「ザ・フジヤ」、ベーカリー「PICOT」といったところが写真に収められている。丁寧に使い込まれて飴色になった調度品のある客室、どこか懐かしい風情の温室やレタールームなど、歴史を感じさせる空間に佇む少女はしかし、過度にノスタルジーに寄りかからず現代的な雰囲気である。旅する少女を演じるのは、金子國義の写真作品にモデルとして頻出していた瑠根子。おそらく内藤ルネの絵から採用されたであろう名前に違わぬ、美しい弧を描く眉とぽってりとした唇は、いかにも金子好みである。ページを捲るたびに匂い立つ、長い歴史に負けない存在感が素晴らしい。
富士屋ホテルといえば、古川緑波がその名も「富士屋ホテル」という題のエッセイを遺していて(『ロッパの悲食記』所収)、これがなかなか面白い。終戦後、接収が解かれて営業を再開した富士屋ホテルを久しぶりに再訪する緑波。「戦前戦中、僕は、富士屋ホテルで、幾度か夏を過し、冬を送ったものだった」という緑波は、ある冬の頃の逗留を思い出す。食堂に行ったら、たまたま客がまばらな時間帯。「こんな時に、一つ試みるかな?」と、だいぶ前から計画していたあることを実行に移すことにした。メインダイニングのメニューに載っているものを全部食べる、という計画である。緑波によれば、当時の富士屋ホテルは「アメリカンシステムで、食事代は、宿泊料にこめてある」ということなので、システム上はどれだけ食べようが、まったく食べまいが料金は変わらない。好食漢緑波はそこに目をつけた。コースになっているディナーの「◯◯ or ◯◯ or ◯◯」の”or”を”and”にして全部平らげると、翌朝の朝食から黙っていても全品テーブルに運ばれるようになった。そうして毎食美味しくいただいていたが、さすがの緑波もこれを一週間続けたら飽きて「全身洋食の如き感じになり」、滞在を切り上げたという。
緑波は単なる大食いではなく「一々を美味いと思って、味わいながら食うのである。だから世に言う大食いとは違う」。ちゃんとコースメニューに沿って全部食べるので、当然デザートもいただくのである。「僕は、甘いものが大好きで、脂っ濃いものの後なら、益々いい」という緑波が食したデザートが何だったかは定かではないが、富士屋ホテルには、長く人気を誇るデザートがある。アップルパイである。ホテルでは、ティーラウンジ「オーキッド」、ベーカリー&スイーツ「PICOT」で取り扱っているこのアップルパイ、都内でも購入できるということをつい最近知った。「コレド室町2」の地下1階に、富士屋ホテル直営のパイ専門店「The PIE」があるのである。アップルパイをはじめ、毎週水曜日の15時から限定発売されるアップルパイシュー、いちじくパイ、モンブランなどの季節限定メニュー、ミートパイ、チキンパイ、ナポリタンパイといった惣菜パイと、パティシエの作る甘いパイ、料理人の作る甘くないパイの両方を楽しめるのが「The PIE」の特色。わたしは日曜日の遅めの時間に伺ったので、ほとんど売切れ状態だったが、幸いアップルパイを購入することができた。
カルピスバターをふんだんに使ったパイ生地に、ぎっしりと詰まったリンゴはほんのりシナモンの風味がある。実にオーソドックスなアップルパイではあるが、真っ向勝負といった潔さから、丁寧な仕事ぶりが透けて見えてくるのがいい。上品で媚びない甘さも好みである。わたしが買ったのはカットされたものだが、もちろんホールでも販売しているので、用途や人数によって選ぶことができる。
食べ終わってから、尾崎翠の戯曲「アップルパイの午後」を再読した。「第七官界彷徨」に先駆け、1929年、『女人藝術』に発表された「アップルパイの午後」は、登場人物が妹、兄、友達の3人だけというコンパクトな構成の話である。妹は校友会雑誌に文章を投稿する文学好き。兄から見たら「いったいお前くらい男に似た女はいないぞ。頭を切ったり、青い靴下をはいたり。衿頸ときたらバリカンの跡で蒼くなっていて、その下が栗っかすのような肌の粗い頸なんだ」という様子である(「頭を切ったり」は、今でいうショートボブのようにしてしまったことをいっている)。兄はそんな妹に、恋をして女らしくなれという。一方、兄は「友達」の妹で、自分の妹の同級生でもある雪子に恋している。兄妹のテンポのよいやりとりを経て、終盤に「友達」である松村が二人の住む下宿を訪れる。アップルパイと、雪子から「兄」への伝言を携えて。
雪子からの伝言は、「兄」が婚約の申し込みをしたことへの返事だった。望み通りの返事を得ることができた「兄」は、父親に電報を打ちに外出する。残された「妹」と「友達」である松村とアップルパイ。お茶の支度をしに部屋を出入りする妹に「お茶なんかどうだって好いから、おかけなさい」という松村。「でもお茶が濃いほどあなたはやさしくなるんですもの」とパイを切る妹。この後の会話を読めば、知らぬは「兄」ばかりということがわかる。まったくジャック・リヴェット『王手飛車取り』さながらのしたたかさではないか! 「アップルパイの午後」のアップルパイは、一見すると奥手な妹の初々しい恋愛という印象から甘酸っぱいように感じられるが、さにあらず。むしろ濃厚な恋の蜜の味なのである。だから濃いお茶がぴったりなのだ。
※「コレド室町2」にあった富士屋ホテル直営のパイ専門店「The PIE」は、現在は閉店しております。情報は、掲載時のものになります。
※掲載情報は 2015/09/20 時点のものとなります。
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キュレーター情報
BEAMSクリエイティブディレクター
青野賢一
セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。