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求肥と虎豆の甘さの二重奏
山の手線目白駅の改札を出て左に目白通りを200mほど進むと、昭和20年に目白で開業した「目白 志むら」がある。元々は昭和14年に青山で創業し、1階は和菓子販売、2・3階は甘味喫茶。夏のかき氷は有名で、和菓子からお弁当までと幅広いラインナップの和菓子店である。こちらの名物は、昭和20年に初代が考案した「九十九餅(つくももち)」。あんこを巻き込んだ「福餅」とともに志むらの2大看板商品である。
九十九餅の箱を開けるときな粉がまぶされた三角形の餅がでてくるが、皮自体が黄色い、なぜだろうか。皮をめくると豆が入っている、この豆は何だろうか。普段、和菓子を食べる時にいちいちどういう形で作られているか、気にしないで食べていたが、この数年で3冊の和菓子の本を制作しており、ついつい和菓子を分解して調べるクセがついてしまった。この九十九餅の「餅」は求肥(ぎゅうひ)なのであるが、求肥とはなんだろうか。
いや、もとい!「餅」と「求肥」は同じものか。餅はもち米を蒸して搗くことで粘りを出しているが、求肥は粉にしたもち米粉のことで、上新粉、白玉粉またはもち粉と呼ばれているのだ。いや、これも正確ではない、上新粉はうるち米を精白し、水洗い、乾燥して粉にしたもので、白玉粉ともち粉の原材料はもち米で、もち粉は白玉粉よりきめ細かなので求肥向きは、もち米粉なのだが白玉粉でも良い。
餅は日を経ると固くなってしまうが、求肥は柔らかい状態が長く続く、なぜだろうか。求肥はそのままでは求肥にならない、これに、水飴や砂糖を加えてよく混ぜ合わせて加熱していく。この粉に砂糖などの糖を入れると、糖の保水性により時間が経過しても柔らかく、食べる際にも加熱する必要はないのだ。通常の求肥はこれで良いのだが、志むらの求肥には卵も加えられているのだが、これに全卵も入っていて、それで全体に黄色い求肥になっているのだ。
求肥は平安時代に唐から唐菓子と材料として入ってきた「牛脾糖」が原型と言われている。なぜ牛の字がつくかというのは諸説あるが、漢字では「牛皮」とも書き、これは牛のなめし革のように白いという。しかし、日本では獣食を忌む(肉食禁止令)で牛という字を、飴は肥えるとう意味で「求肥」と当て字になったという。ゆえに、求肥は白っぽくなるのだが卵黄が入ることにより全体に志むらの求肥は黄色のである。卵が入ることでさらに求肥はふわふわと柔からなのである。そして、求肥の中には甘く煮られた虎豆が入って、求肥の甘さと虎豆の二重奏の甘みが口中に押し寄せてきて、後を引く旨さなのである。しかし、志むらの求肥は本当に食べていて心地良いのは他をしらない。
※掲載情報は 2018/10/31 時点のものとなります。
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キュレーター情報
アートディレクター・食文化研究家
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
後藤晴彦は、ある時に料理に目覚め、料理の修業をはじめたのである。妻のことを“オクサマ”とお呼びし、自身はお手伝いハルコと自称して、毎日料理作りに励んでいる。
本業は出版関連の雑誌・ムック・書籍の企画編集デザイン制作のアート・ディレクションから、企業のコンサルタントとして、商品開発からマーケティング、販促までプロデュースを手がける。お手伝いハルコのキャラクタ-で『料理王国』『日経おとなのOFF』で連載をし、『包丁の使い方とカッティング』、『街場の料理の鉄人』、『一流料理人に学ぶ懐かしごはん』などを著す。電子書籍『お手伝いハルコの料理修行』がBookLiveから配信。
調理器具から食品開発のアドバイザーや岩手県の産業創造アドバイザーに就任し、岩手県の食を中心とした復興支援のお手伝いもしている。