未知なる組み合わせを求めて

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未知なる組み合わせを求めて

金柑専業果樹園のコンポート

炊飯をしなくなって数ヶ月が経過した。このことは、家で食事を摂らないということを意味しているのではなく、文字通り米を炊かないだけである。こう書くと、炭水化物断ちをしているかのように思われるかもしれないが、そういうことではない。ではなぜか? 典型的な日本の食卓に見られるような、炊いたご飯とおかず数種類という組み合わせを自分が作ることへの限界を感じたからである。おかず一品では栄養的なバランスも見た目のバランスも悪い。では、もう一品、いやいや二品、となると、わたしの技量では簡単なものでも無駄に時間がかかってしまうし、そもそもそれほどバリエーションを持ち合わせているわけでもない。よって、ごく普通の日本食は家の外––––定食屋や和食中心の飲み屋などでいただくことにしたのだ。いうまでもなく中華料理も同様である。

 

オーソドックスな日本食、中華料理を作らないとなると、残るは必然的に洋食となる。といっても煮込んだりするものは面倒なのでよっぽどでない限りやらない。まぁパスタは比較的よく作るが、それ以外だと、何か二、三品とパンというメニューが多い。魚料理、肉料理は概ねフライパンを使った「焼き系」。野菜、卵は茹でる場合もある。ハーブのオムレツやクスクスのサラダなど、外で食べて美味しかったものを真似て想像で作るが、どれもさほど手の込んだものではないので、絶品というわけにはいかないが、大外しすることもまずない。

 

そんな風にして毎夕食を自分のために拵えているわけだが、一通り作ってから、彩りが足りなかったり、ちょっとした物足りなさを感じたりすることもある。そういう場合に力を発揮するのが瓶ものである。缶ものは基本的には開けたらいっぺんに使い切らねばならないが、瓶ものはしっかり保管すれば何度かに分けて食することができるところがいい。和食なら海苔の佃煮や味噌の類(蕗味噌やねぎ味噌など)といったようなものがこれにあたるが、洋食だとパテやペースト、ドライトマトのオイル漬け、オリーブなど。さっと出すことができて調理いらずというのがありがたい。それだからついつい瓶ものを買ってしまいがちで、空瓶が増える一方である(適宜処分しているが)。そうした瓶ものラインナップに最近加わったのが清木場(せいこば)果樹園の「完熟きんかんコンポート」だ。

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清木場果樹園は、鹿児島県南さつま市加世田津貫で三代にわたって金柑の栽培を続けている専業果樹園。ホームページによれば加世田津貫は「四方を山に囲まれ、山腹には柑橘類の果樹園が階段状に開かれています。あちこちに清水が湧き小川が流れる美しい地で、適度な保水性や良い風通しと夏冬の寒暖差があり、柑橘類の栽培に最適」で、ここでの柑橘類の栽培は「大正5年に石原岩太郎氏が津貫小学校の演習園として普通みかんを植えたことに端を発し、昭和初期に有志による津貫園芸組合が発足。本格的に栽培が始まり、温暖な気候や風土が適合したことから、この地の基幹産業として発展」した。当然、清木場果樹園の主力商品は金柑で、青果として出荷される完熟金柑のほか、金柑の加工品も手がけている。「完熟きんかんコンポート」はそうした加工品のひとつである。

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自然になるべく近い状態で栽培され、開花後210日以上経った完熟金柑を砂糖とリキュールで煮込んだ「完熟きんかんコンポート」。瓶の蓋を開けると、つやつやとしたきれいなオレンジ色の金柑が顔を覗かせる。まず、そのままいただいてみるとかなり甘みが強いが、金柑特有のほのかな苦味もしっかり感じられる。さて、これを面倒な調理をせず夕食時の「もう一品」に仕立てるにはどうすればいいか? ここで話は10年ほど前に遡る。

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10年ほど前のある晩、さる音楽家の方と食事をした。その方の奥様も一緒だったのだが、食事のあと近くのバーで杯を重ね、確か完成前の新しいアルバムの音源をお酒でも飲みながら聴こう、ということでその方のお宅にお邪魔させていただいた。相当深い時間だったが、奥様がちゃちゃっと手早くフィンガーフード的なものを用意してくださって、その中にふたつに切った生の金柑にブルーチーズを添えて蜂蜜をかけたものがあった。それぞれ別個に食したことはあったが(ブルーチーズに蜂蜜はセットで)、すべてを組み合わせたのは初めてだった。そしてこれが滅法美味しかったのである。完熟きんかんコンポートを目の前にしてそのことを思い出した。そうだ、チーズだ。ということで、冷蔵庫にあったカマンベールとブリーチーズに完熟きんかんコンポートを合わせてみた。チーズときんかんコンポートだけでは味に締まりがないような気がしたので、黒胡椒をガリガリ挽いてかけたのだが、これが大正解。絶妙な味わいは夕食の「もう一品」にふさわしいものであった。

 

ところで先日『コクトーの食卓』という本を古書で入手した。著者であるレーモン・オリヴェ(レイモン・オリヴェとも)は、1948年、パレ・ロワイヤルのレストラン「ル・グラン・ヴェフール」を買い取ってオーナーとなった料理家である。このレストランでジャン・コクトーが好んだ料理の作り方を、エピソードを交えて綴ったのが『コクトーの食卓』だ。この本にコクトーは序文として「ある不遇な芸術の舞台裏」と題した短いテキストを寄せているのだが、ここでコクトーは「天才はふつう人々が思っているほど稀なものではない」としたうえで、天才の定義についてこう述べている。「他の人々が代々受け継がれてきた習慣を通して見たり表現したりするものごとを、ある特殊な角度から見たり表現したりすること」。その少し前の箇所では、料理という秘儀に求められることとして、習慣に固執しないことと個人主義を打ち出す「不服従の精神」(本ではここに「わがままさ」とルビがふられている)を挙げている。習慣にこだわらず個人主義を打ち出すことと伝統的なものは必ずしも敵対関係にあるわけではない。わがままさを貫いた結果、ぐるりと一周して伝統的なものに落ち着くこともあって、実際この本にはトラディショナルな調理方法もたくさん掲載されている(とはつまりコクトーがそれらを好んだということである)。先の天才の定義と重ねるなら、慣習––––ここでは調理法や食材についてのそれ––––をどういった視点で捉えるかが重要であり、そのためには慣習や伝統がなんたるかを知らないことには視点が定まらないだろう。コクトーがいうところの天才は、アンチ慣習、アンチ伝統ではなく、慣習や伝統を理解したうえで、独自の閃きをもって新鮮に表現するのである。そこには当然のことながらより美味しいもの、これまで味わったことがないものへの興味と欲求が作用しているにちがいない。

 

年齢を重ねると、複雑な味がわかるようになるといわれる。先の「完熟きんかんコンポート」とチーズ、黒胡椒の組み合わせなどは、子どものときだったらそれぞれ別々にしてくれ、といいそうな複雑かつ絶妙な味わいで、確かに大人向けといえそうである。こうした「年齢を重ねると、複雑な味がわかるようになる」という、味覚の発達に軸足を置いた説は一見真理のように思えるが、果たしてそれだけなのだろうか? 生まれたばかりの子どもの根源的な欲求から出発し、大人になってゆくにつれて人間の欲求は様々な方向に及ぶ。外の世界との接触によりもたらされるこうした欲求の変化、すなわち快楽を追求するベクトルへと変わってゆく欲求は、倫理的、社会的制約を一旦置いておくとするならば、果てしないものであるだろう。食に対するそれもまったく同様で、複雑な味を好むようになるのは、味覚拡張への飽くなき探究心の表れのように思われてならない。もっと美味しいもの、試したことのない取り合わせ、今まで食べたことのない料理を求めて、我々は東奔西走する。その一方の極が習慣に固執せず新たな視点でもって料理を更新する天才料理家だとすれば、もう一方の極は谷崎潤一郎の『美食倶楽部』の面々であり、ロミ『悪食大全』の中にひしめき合う「淫食家」たちである。私のごとき平凡な人間はそれほど突飛な発想は持ち合わせていないが、それでも新たな組み合わせを考えるのはなかなか楽しい。さて、今度は何を試そうか。

紹介しているお店
清木場果樹園

※掲載情報は 2017/11/26 時点のものとなります。

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キュレーター情報

青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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