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唐突な話ですが、京都へは修学旅行で一度訪れただけで、2度目の京都は40歳を超えてからなのです。30歳の頃には、フレンチやらイタリアン、はたまた、スペイン料理を食べに欧州へよく出かけていたのです。ある時、ふと、海外の料理は詳しくなっても日本の料理はよく知らない、判らない自分に気がついたのです。そして、日本料理をちゃんと勉強しようと思い京都通いをはじめたのです。毎回京都で食べ歩きする時に必ず立ち寄るのが、京都の台所とも呼ばれる錦市場です。錦市場のスタートは寺町の錦天満宮へ参拝してから、真直ぐ高倉への路を行きます。錦小路に平行して5本の通りが交差しているのですが、御幸町を超えて直に「有次」があり、普段から調理器具に関心があるので、ここで、和包丁などを購入するのです。「ハルコ」の刻印入りの和包丁を何本も所有しているのですが、料理の腕となると……。
少し、錦市場の歴史をひも解いてみましょう。ここに市場が出来た最大の理由は、地下水に恵まれていたため魚や鳥の貯蔵等に適しており、魚の御所納入の往帰に自然発生的に市が立ったのだそうです。1054年に後冷泉天皇が錦小路と改めたと言われ、1615年に江戸幕府が初めて魚問屋の称号を許して発達したのです。たまさか、今、京都の禁裏を舞台にした時代劇小説を読んでいたら、錦市場で大きな役割をはたした青物問屋、升屋茂右衛門なる人物が登場してくるではありませんか。この名前はご存知無い方でも、伊藤若冲という名前でよく知られていると思います。若冲は錦市場の存亡興隆にずいぶん力を尽くしたそうですが、生家跡と言われているのは、寺町から390mも行った高倉の方にあります。明治になり錦市場も一時衰退し、1883年には大店がわずか7軒になったのですが、徐々に復活して現在に至るそうです。ちなみに、現在の錦市場を通して覆っているアーケードは、1993年に完成し、私が京都を訪れるようになる直前でした。錦市場をウォッチングしていた最初の頃から比べると、ここ20数年で新しい店も多くでき、一時は閑散としていた時もありましたが、今や平日でも海外からの観光客の人が増え、そぞろ歩きもままならないくらいです。京野菜、乾物、焼き魚、卵焼き、米、餅、麩など京都の台所といわれるお店が、126軒(※)もあるのです。その他にイートインの店もずいぶん増えて、皆さんよく歩き喰いしながら散策していますね。
寺町から高倉まで交差する、御幸町、麩屋町、宮小路、柳馬場、堺町の間に、立ち寄り、買っている店は沢山ありますが、今回は、柳馬場を入って、2軒目の「千波」のご紹介です。20数年前に、錦市場の店頭で、「おやじなかせ」と面白いネーミングの商品を発見したのです。昆布の佃屋さんですが、他には「山椒昆布」やら「松茸昆布」と普通のネーミング。この商品は、まず「おやじなかせ」という名前に惹かれました。試食をさせてもらうと、昆布の佃煮に、かつおと梅肉が組み合わせって、塩味に中にほのかな酸味が旨いのです。確かに「おやじがなく」くらい旨いという意味もありますが、千波の先代が当代(二代目)が昆布の佃煮にかつおと梅を混ぜて作ったのを食べて、先代が泣いたという逸話があるそうです。
早速東京に戻り、温かなご飯の上にのせていただくと、ご飯が止まりません。おむすびに混ぜたり、そのまま酒の“あて”にしてもいけます。もう、わが家の常備菜になってしまったのです。冷蔵庫の中の「おやじなかせ」が無くなりかけると、そろそろ京都へ行きたいと思うのでした。しかし、京都の錦市場はイッピンの宝庫ですね。(また、違うものをご紹介します)
(※)錦市場商店街公式Webサイトより
http://www.kyoto-nishiki.or.jp/union.html
※掲載情報は 2017/05/05 時点のものとなります。
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キュレーター情報
アートディレクター・食文化研究家
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
後藤晴彦は、ある時に料理に目覚め、料理の修業をはじめたのである。妻のことを“オクサマ”とお呼びし、自身はお手伝いハルコと自称して、毎日料理作りに励んでいる。
本業は出版関連の雑誌・ムック・書籍の企画編集デザイン制作のアート・ディレクションから、企業のコンサルタントとして、商品開発からマーケティング、販促までプロデュースを手がける。お手伝いハルコのキャラクタ-で『料理王国』『日経おとなのOFF』で連載をし、『包丁の使い方とカッティング』、『街場の料理の鉄人』、『一流料理人に学ぶ懐かしごはん』などを著す。電子書籍『お手伝いハルコの料理修行』がBookLiveから配信。
調理器具から食品開発のアドバイザーや岩手県の産業創造アドバイザーに就任し、岩手県の食を中心とした復興支援のお手伝いもしている。