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渋谷区富ヶ谷の代々木八幡周辺エリアに、ポルトガル料理店「クリスチアノ」とその姉妹店を複数出店している佐藤さん。もとは和食の料理人を目指していたのが、西洋料理に目覚め、イタリアへ渡った経験も持っています。そんな佐藤さんがポルトガル料理店を作った理由とは? 次に出す予定のお店のことも、少しだけ教えていただきました。
職人への憧れから和食を学び、就職したのはホテルの洋食部門?!
【料理に興味を持つようになったきっかけを教えてください。】
中学生の頃、高校に進学するつもりがなかった僕には、手に職を持つ「職人」への強い憧れがありました。「寿司職人ってカッコいいな」などと考えている中、ある日思い立って近所の寿司屋さんに「ここで修行させてください!」と直訴したんです。大将は最初びっくりしながらも承諾してくれて、そのことを親に事後報告したところ、こっぴどく怒られてしまいました(笑)。相談もなく勝手に決めて弟子入りの話をつけてしまったこともありますが、「高校には行くように」と説得されて。母の顔見知りのお店だったので、一緒に謝りに行って事情を説明し、高校へ行かず寿司職人になるという希望はここで絶たれました。
そして高校生になって、卒業後は晴れて料理人になれると思っていたら、今度は先生に「今どき料理をやる人間は、調理師学校へ通うものだ」と勧められ、調理師の専門学校へ進みました。和食希望で入学したので、当然授業でも和食について学んでいたにもかかわらず、就職のための校内面接で、僕は思わず「西洋料理が希望です」と答えてしまったんです。これには先生方も慌てた様子で、「お前は和食専攻じゃないか」とツッコまれました(笑)。でも、自分はもともとそういう性格。頭の中に常にいろんなアイコンがあって、同時進行でディレクションしているんです。だから、口には出していなくても、ある時ぱっと方向転換してしまうところがありますね。
僕は専門学校に進学して初めて西洋料理というものを知りました。そして、こういう言い方をすると失礼かもしれませんが、将来、西洋料理から和食へ転身することはできても、和食をやった後で西洋料理への転身は難しいだろうと思たんです。それで、学校では和食を学んでいたけれど、就職は西洋料理を希望しました。
結果、僕は東京の全日空ホテルに就職しました。当時まだ創業10年に満たない新しいホテルでしたが、料理人や顧問など優秀な人たちが揃っていたので、「ここで働いてみたい」と思いました。1年目はパントリーに入ってフルーツのカットに始まり、2年目には宴会部門に配属されてガルド・マンジェとしてオードブルなどを作るようになりました。
【ホテルで働いた後に、海外へ渡ったきっかけは?】
もともとアートの世界にもすごく興味があって、美術史が好きだし、特別上手くはないけれど自分で絵を描くのも好きなんです。ホテルで働いていた当時も、アイスカービングをする先輩に教わったり、部屋で木彫りの彫刻を作ったりしていましたね。美術館も大好きで、上野の西洋美術館には何度も1人で足を運びました。そんな中、アートにゆかりがあって有名絵画なども見られる地域として、ベネチアの話を聞きました。画家がその画風を変えてしまうほどの風景があるとか、世界中から画家を目指す人が集まってくるとか。そんな場所にぜひ一度行ってみたいなぁと、漠然と考えるようになりました。そのままずっとホテルで働くつもりがなかったこともあり、20歳の時にイタリアにいる先輩を頼ってイタリアへ行くことに決めました。
ずっと同じホテルの料理人として生きて行くよりも、自由気ままな晴耕雨読的な生き方に憧れがあったんですね。今もありますけど。そのためには何か手に職をつけなければいけなくて、その結果思いついたのが職人として料理を作ることでした。料理が作れたら、どこに行っても食べるのに困ることはないだろうと(笑)。
いざ海外へ渡ることになり、イタリアには向かいましたがベネチアへ行くのはやめて、まずは修行というよりも生活のためにマルケ州で働き始めました。ここでベネチアに行ってしまったら、全てが終わってしまう気がしたから。日本に帰ることになった時に、最後のご褒美としてベネチアへ行こうと気持ちが変わったんです。実際のところ海外には4年半滞在しましたが、その最後の半年までベネチアには行かなかったんですよ。
修行ではなく、食べていくために料理店で働いた海外時代
【海外へ行っていた頃の、食に関する忘れられないエピソードはありますか?】
イタリアで最初に働き始めたのは、今はもうありませんが「リストランテ・イル・サラギーノ」という名前の魚料理専門店。ゴードン・ラムゼイの元で働いていた経験を持つなど、海外にも目を向けているような同世代の優秀な料理人たちが働いている店で、オーナーも6つほど年上のまだ若いシェフでした。
向こうへ行って驚いたことはいろいろあります。20歳の僕にとって初めての海外で、ヨーロッパの事はほとんど知らなかったですし。例えば賄いの時に白ワインが出て来るのにはびっくりしました。こんなにガバガバ白ワインを飲むのかと。パンをワインに付けて食べていたりもして。それに、ピザを1人1枚食べるのが当たり前だということも知らなかったので驚きましたね。あと、誕生日にみんなから耳を引っ張られる習慣があったり、シェアハウスでは同居人の食べ物をある程度は勝手に食べていいってことも(笑)。
ホームシックというか、まだ言葉もほとんどわからなかった頃の切ない思い出もあります。僕が働いていた店は海沿いのリゾート地にあって、オンシーズン以外は店が休みになると、家族と過ごすためにみんな家に帰ってしまいます。だから休みの日は家の中が閑散として、僕1人になってしまうわけです。住んでいたのはヌマーナという小さな町で、隣町へ行くにもちょっと距離のあるような場所。僕はスクーターを持っていたので、休みになると隣町のシローロまで足を伸ばして、50メートルくらいの崖の上から海をぼーっと眺めて過ごしていました。海が綺麗なことで有名な場所です。スーパーで買った生ぬるいモレッティと、大好きなパン屋さんのミルクパンと、ピツァールフォルノというピザ味のパンを持って行って、1人でビールを飲みながらパンを食べ、ただ海を眺めるだけ。
でもこれを毎週のようにやっていると、さすがに寂しくなってくるわけです。夜は、母国語じゃない言葉しか流れてこない小さなブラウン管のテレビを観る。1人で料理を作って食べる気にはならないから、スーパーに行っても買うのはパネビアンコというパンと生ハムとチーズだけ。でもある日、家族連れが楽しそうに食材を買っている姿を見て、たまには何か作ってみようと思い立ちました。それで、その日はいつもの組み合わせに、粉を溶かすタイプのスープも買って、いざ火にかけて温めようとしたら、まさかのガス切れ……。
その時は、あまりの寂しさにとうとう泣いてしまったんです。自分は修行をするためにイタリアへ来たわけでもないのに、何でこんなに幸せではない生活をしていて、こんなに寂しい週末を過ごしているのかと。それで、粉が全く溶けていないスープを無理矢理飲みながら、パンとチーズと生ハムを食べました。この経験は忘れられませんね。
あとは、仲間が賄いで作ってくれたパスタがすごく美味しかったのも覚えています。生クリームと塩とバターだけで作るペンネ。彼は賄いでそれしか作らない、ちょっと変わった人でしたが、今は東南アジアで有名なホテルの料理長をしていますよ。
ジャンル名で選んでもらえる店なら、きっと埋もれない
【日本へ帰国後、ご自身のお店を出すまでにはどのようなことをされていたのでしょうか?】
帰国後は、山田宏巳さんの「リストランテ・ヒロ」で1年間お世話になりました。その後、オーストラリアワインバーの「アロッサ」で料理長として約9年間働きました。ここはポート・ジャパン・パートナーズという会社が運営していて、2年目以降は店の代表という立場となり、会社経営や店舗運営の基礎を学びました。いわゆる雇われの社長でしたが、普通はそこまで任せてもらえないようなことも経験させてもらいましたね。その分責任も大きかったですけれど。2007年には自分の会社である株式会社キュウプロジェクトを立ち上げて、2010年12月にポルトガル料理店「クリスチアノ」をオープンしました。
【なぜポルトガル料理店を開こうと思ったのですか?】
飲食店の経営がどうすればうまくいうだろうと考えた時、お店を作る人に知識の差は、ほとんどなくて、本当に才能のある人はごく一部に過ぎず、自分はその中には入っていないからこそ埋もれない店作りが大切だという答えにたどり着きました。もっと言うと、同じようなジャンルで同じような経営方針の店の中に突出したところはないと。食材のルートはどこもだいたい同じ。一時「幻のマンガリッツァポーク」をいろんなところで見たように、結局どこも同じように売り出して、同じように使ってしまう。でもそれでは、これだけの飲食店がひしめく中で埋もれてしまうと思ったんです。
お客さんは基本、暦通りに動きます。さらに不況になれば来なくなり、好景気になってきたら来店も多くなる。でもそれとは関係なく、いつでもこの店を目指して来てもらうための何かが必要で、この店に興味を持ってもらえるようなキャッチーな言葉は何だろう?と考えました。店のことを説明する時に「アイスクリームの上にステーキを乗せて、それをバンズで挟んでバーナーで焼いて食べるのがすごく美味しいの」と言ったところで、どれだけ美味かろうが誰も来ませんよね。魅力が多すぎてよくわからないのも、お客さんが来ない原因になってしまいます。
だったら、「何を食べに行こうか」と検討する時のジャンルの一つに入ってしまえばいいと気づきました。ポルトガル料理店は少ないので、「イタリアンのどの店に行こう」じゃなくて、「ポルトガル料理はどう?」と検討土台に上がれます。「えー、ポルトガル料理って食べたことない」というような会話が成立して、「高くもないし美味しかったよ」「じゃあそこに行こう」という感じで、この店に誘い出す文句がポルトガル料理というジャンルそのものになるわけです。さらに、お客さんが個人的に払える価格帯を考えて、居酒屋感覚で使えるようにしています。そうすれば、カレンダーや景気に関係なくお客さんが呼べる。ジャンルとして捉えてもらうだけでいいのです。
【料理を作る際に、心がけている事はありますか?】
一度来てくれたお客さんにまた来てもらうために、料理のクオリティは守りたいです。「あの価格で妥当だよね」で終わらせたくないと言うか、そこはプロ意識を持って素人が作るより美味しいものを、手間ではなくて知識と技術を使って提供したいと思っています。そうすると、来てくれたお客さんが「美味しくて安くて新しいジャンルの店」とか「コスパがいい店」のように、ポルトガル料理というジャンル名以外の売り文句を付けて認識してくれるようになります。
【現在、経営している料理店を教えてください。】
代々木八幡周辺エリアには、最初に出したポルトガル料理店「クリスチアノ」、姉妹店で惣菜や玉子タルトなどの店「ナタ・デ・クリスチアノ」、魚料理の店「マル・デ・クリスチアノ」の3店と、「パッポンキッチン」というタイ料理店があります。そして赤坂にスペインバル「ブリーチョ」を出しています。「ブリーチョ」はキュウプロジェクトの運営ではなく、別の運営会社に僕が入社する形で関わっています。
狭いエリアに複数の店を出すドミナントという形を取っている理由は、僕のようになんでも自分でやりたがるタイプの人間は、離れた場所にお店を出すと、どうしても店のスタッフとの間に距離感やすれ違いが生じてしまい、うまくいかないものだとわかっているから(笑)。また、新しい店を出す時にまず考えるのは、その街にまだないジャンルの店であること。だから、近所に美味しい惣菜屋さんがあったらいいなと以前から思っていたのと、もんじゃ焼きのお店がないので、来年出す予定の店は惣菜ともんじゃ焼きの店に決めました。
【これからやってみたいこと、夢を教えてください。】
欲があって事業展開する気がある人なら、この街でドミナントなんかせずに、勝負をかけて立地の良いところに出て行くと思うんです。でも僕はその気はないので、この辺でやっています。だから次の何かというのは、正直ないですね……。
ただ、来年出す予定の新しい店を惣菜屋さんにする理由は、もともと妻がフードスタイリストを目指して修行をしていて、今はその気持ちはなくなったけれど、いつか惣菜屋をやりたいと言っていたのも理由です。京都の「中川屋」のような、近所のお母さんたちが普通に買いに来て、美味しい惣菜が揃っているお店って、なかなかないと思って。だから、夢というほどのことではないけれど、これからもそうやって「この街にあったらいいな」を実現したいとは思います。
新しい店を出そうと考えている人には「10軒イタリアンのある街にイタリアンを作ろうとするのはやめよう」と言いたいですね。自分がやってきたことと違っても、そんなに離れていないジャンルで商売する方法を考えた方がいいと思うし、その方が街も楽しくなるじゃないですか。店を出すということは、まちづくりでもあるので、そういうことを考えるのが商売だと思っています。
Cristiano’s (クリスチアノ)
東京都渋谷区富ヶ谷1-51-10
03-5790-0909
公式サイト
http://cristianos.jp
ポルトガル料理&ワインバーとして2010年オープン。ポルトガルの定番料理や80種類以上のポルトガルワインが揃う。旬の国産食材も積極的に取り入れながら、美味しくかつリーズナブルにポルトガルの食文化に触れることができる。
【プロフィール】
高校卒業後、調理専門学校で和食を学ぶ。卒業後は全日空ホテルに就職し、西洋料理を担当。その後20歳で単身イタリアへ渡り、イタリア各地、ロンドン、バンコクなど6年間を海外で過ごす。帰国後は「リストランテ・ヒロ」を経て、オーストラリアワインバー「アロッサ」で7年間料理長を務める。2010年にポルトガル料理「クリスチアノ」を開店。その後も代々木八幡近隣を主軸に複数の店舗を経営する。
※掲載情報は 2016/08/23 時点のものとなります。
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