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唐突によみがえった香ばしいバターの風味
あの日、私は、年に二回の検査日で麻布十番の病院にいた。少々、空腹で検査をこなし、会計を待つ間、「ランチはどうしよう。いつものインド料理店でバターチキンカレーか」などと考えていた。私は、バターでコクを出したカレーが好きだ。
でも、ちょっと違った。私の首から上のところは、カレーのバターではないバターを欲していた。「うーん、今日はカレーじゃないんだな。じゃあ、何を食べようか……」
すると、その途端、香ばしいバターの香りが口の中に広がっていった。なになに? この芳醇な風味……。焼き菓子? 食べたことがあるけど、なんの味だっけ……。
最近の私は、不思議な味覚を感じることがある。シチュエーションに関係なく、唐突に、食べたいものの味が脳内でフラッシュバックするのだ。朝食を抜いて検査に来たので、食事で胃を満たしたいはずだった。それなのに、不意に現れた欲求味覚は、食事を通り越してデザートだったのだ。
で、閃いてしまった!
「あ! あそこだ! ……そういえば、ここから歩いていけるんじゃないの?」
いてもたってもいられず、スマートフォンで場所の検索をしようと思った。でも、あまりにも突然に味だけを思い出したので、店名が出てこない。情けないことに、商品名とか、そういった重要なキーワードすら出てこない。でも、口の中は、あのバター風味の焼き菓子を思うだけで唾液が出てくる。探すしかない。場所ならわかる。
そして、「白金高輪 焼き菓子」の検索ワードで、念願のパティスリー情報がヒットした。「そうそう! ここ!」
やった! こういう時って、すごくうれしい。
『メゾン・ダーニ』のガトーバスク
私の脳の味覚が欲していたのは、白金の『メゾン・ダーニ』の「ガトーバスク」だった。
最初に頂いたのは、友人ご夫妻を我が家の食事会にお招きした時のことだった。二人からの手土産として、『メゾン・ダーニ』のガトーバスクと生菓子を頂戴した。箱の中の生菓子は、どれも完璧な美しさで、目移りして選ぶのが困るほど。私が目を輝かせて選んでいると、友人が言った。「うちの近所のパティスリーなのだけど、絶品よ。ケーキはどれも美味しいけど、こっちがスペシャリテ」。
そのスペシャリテの箱を開けると、焼き菓子が入っていた。それこそが「ガトーバスク」。4つほど入っていただろうか。箱を開けた途端に広がる香ばしい香り。小袋に入っていないからこその贅沢な香りだ。
「私たちはいつでも食べられるから、これは明美さんが後で召し上がってね」
そう言われて戸惑ってしまった。ええ? こんなにたくさん? そう言われても……(汗)。「うれしいけど、私ひとりで4つも食べきれないかなぁ……小袋に入っていないから賞味期限もあるだろうし、一緒にいかがですか?」そう返すと、友人は「そんなこと心配しなくても大丈夫。一人で食べちゃうはず」と笑った。その笑みには「私も同じく、いつもそうだから」という意味も含まれていた。
さあ、いよいよ本格的にメゾン・ダーニのガトーバスクの説明に入ろう。
私の記事は、いつも前置きが長くて申し訳ないのだが(汗)、私のお気に入りには、出会うまでのストーリーがある。お時間を頂戴してしまい恐縮ではあるが、順を追って説明させていただけると、気に入っている理由がよりよく伝えられると思う。
バスクという地
さて、この美味しい焼き菓子を語るにあたり、まずは、バスクという地について書きたいと思う。
私は、ガトーバスクというフランス語の名称から、バスクはフランス領と思っていた。しかし、パリと日本で活躍している有名デザイナーにバスクの街について聞いたところ、スペイン領であることがわかった。あの美食の街として有名なサンセバスチャンがバスクなのだ。ガトーバスクはフランス発祥なのに、バスクはスペイン領……? バスクって、一体、どちらの領地?
そんなわけで、恥ずかしながら、この「どっち?」という初歩的な質問を、『メゾン・ダーニ』のシェフパティシエ戸谷氏への取材において投げてみた。すると、こんな回答がいただけた。
「バスク地方はフランス、スペインにまたがる地方です。独自の文化、言語のある地方で、特にスペイン側は民族意識が高く、20世紀後半には独立運動も盛んだったので、バスクというとスペインというイメージが強いのでしょう。また、スペインのサンセバスチャンが世界有数の美食の街として知られているので、バスク=スペインというイメージはより強くなっています。でも、ガトーバスクはフランス側が発祥とされていて、色々な説があります。豊かな自然に囲まれていることから、フランスバスクには『山バスク』『海バスク』と表現されているのですが、山バスクの保養地で療養されている方にガトーバスクがふるまわれたのが起源という説もありますし、昔、クジラ漁が盛んだった時代、クジラ漁に出る漁師達が保存食として持っていっていたという説もあります(シェフパティシエ戸谷氏談)」
なるほど。ガトーバスクの発祥はフランスなのだけど、街としては、スペインの方が有名なのだな。
ところで、スペインのガトーバスクはカステルバスコという名称である。その違いは、単に言語によるものらしいが、国によって多少の違いがあるのではないか、と思う。
そこで、シェフが修行された地、フランスのガトーバスクの特徴をお教えいただいた。
※ショップバッグのデザインにも使われているバスクストライプ
フランス発祥ガトーバスクとは
「アーモンド風味のクッキーから始まったガトーバスクですが、そこに、フランスバスクのイッツァスー(Itxassou)という村の特産品の黒さくらんぼのジャムを詰めて焼いたのが、今のガトーバスクの原形とされています。そして、さくらんぼの収穫が無い時期に生まれたのが、カスタードバージョンのガトーバスクです(シェフパティシエ戸谷氏談)」
ええ~、そうだったのか。ガトーバスクというと、カスタードの入ったケーキを想像していたが、黒さくらんぼ入りが元祖だったとは。
余談になるが、私は「黒さくらんぼ」の表現が好きだ。ダークチェリーというより素朴なイメージで、イッツァスー村の皆さんが丹精込めて育てている様子が目に浮かぶ。
はい! では、お待たせしました!
こちらが、そのバスク伝統の黒さくらんぼ入りのガトーバスク!
画像を見ただけで、妄想味覚が作動(笑)。さくさくっとした食感や、上品な甘味がバーチャルで感じられるってすごい。バターは、もちろんフランス産を使用。
うう、食べたい(笑)。
続いて、カスタードクリーム入り。ガトーバスクアラクレーム。
『メゾン・ダーニ』のカスタードクリームは、品のよいラムの香りが最高! バターが濃厚なさくさくのアーモンド生地に、このオトナのカスタードクリームは、やみつきになる美味しさだ(やばい! 口の中が、ガトーバスクアラクレームを欲している!(笑))。
ガトーバスクをメインにしたパティスリー『メゾン・ダーニ』
『メゾン・ダーニ』はフィナンシェも有名であり、美しい生菓子も販売されているが、ガトーバスクをメインにしたパティスリーである。それなので、今回は、ガトーバスクに絞って紹介したい。
シェフの想いは以下の通り。
「バスクに行くまでは、私にとってのガトーバスクは、カスタードバージョンのアントルメ(※この場合、ホールケーキの意)でした。バスクを訪れた際、一人前サイズに焼かれた黒さくらんぼのガトーバスクを食べて『これが本流なんだ』と知り、その優しい甘酸っぱい味わい、ワイルドな食感にとても興奮いたしました。私は、そんなに立派なパティシエではないので、手広くバリエーションの多いパティスリーよりも、出来る範囲でしっかりしたものを提供したいという気持ちがありましたので、私の中で衝撃を受けたガトーバスクをメインにしたパティスリーを開こう、とその時に思いました。ご自宅用、ご贈答用、様々なシーンでご購入される方々に自分のお菓子が少しでもお役に立てるように、一つひとつしっかりと焼き上がりを確認させて頂いております(シェフパティシエ戸谷氏談)」
さて、上述で、シェフがご自身を「立派なパティシエではない」とおっしゃったくだりは省略させていただこうかどうか迷った。自己評価とはいえ、パティシエとして渡仏先で修行され、あの美味しい生菓子や焼き菓子を生み出した方の評価としてふさわしくない。でも、シェフのお人柄がわかる一文として、敢えてそのまま掲載させていただいた。
このように、戸谷シェフパティシエの想いが根底にあって、『メゾン・ダーニ』では様々な種類のガトーバスクが焼かれている。黒さくらんぼ、カスタード、ショコラ、りんごの四種類の定番の他に、季節に合わせたガトーバスクが売り出されるそうだ。例えば、ハロウィン時期にはパンプキンのガトーバスクが提供される。店頭で、どのガトーバスクにするか迷うはずだが、そういった時は、私のように全種類買うべし (笑) !
左から、ガトーバスク、ガトーバスクアラクレーム、ガトーバスクオウショコラ、ガトーバスクオウポム(ガトーバスクオウポムのみ10月~3月期間限定販売)。
作り手の愛と情熱にノックアウト!
最後に、私の投稿でいつも繰り返してしまう「作り手の愛と情熱」について(しつこくてごめんなさい!)。
今回の『メゾン・ダーニ』のガトーバスクは、しょっちゅう食べていたわけではないのに、味の記憶として残っていたのが不思議だった。味覚の記憶は、食べ慣れたものに作用するものだと思う。それなのに、店名や商品名を覚えていないほど慣れ親しんでいない味がよみがえったのは、繰り返さずとも一発で印象に残る味だったのだろう(ノックアウト)。何かに反応して、良い意味の後遺症としてとどまっていたのかもしれない。
あの日、突然、病院帰りに『メゾン・ダーニ』を訪れ、戸谷シェフパティシエと初めてお目にかかり、私が反応してしまった何かをぼんやりと理解できた。その後、謎解きのようにそれを炙り出そうとしていたら、戸谷シェフからメールの返信が届いた。その文面を読んで「ははぁ、やっぱり……」と納得した。
※店内で接客をする戸谷シェフパティシエ
私がいつも語っている、例の「愛と情熱」プラス、お人柄であった。私が送った取材メールへの返信は、真心が込められているのがわかった。ご多忙にも関わらず、丁寧にお答えくださった戸谷シェフ。素晴らしい評価を得ていても天狗にならず謙虚な気持ちで焼き続け、自ら接客も務め、スタッフを大切にする。そんなシェフの姿勢も、愛や情熱と共に、『メゾン・ダーニ』のガトーバスクに沁み込んでいるのだろう。
シェフのガトーバスクのこだわりは、下記の通りだ。
「バスクで修行中に、色々な店のガトーバスクを食べました。ここの食感が良いな、カスタードが濃厚だな、クッキーの厚みが良いな、等々、いつも自分のガトーバスクをどう仕上げるかイメージしながら食べ歩きしておりました。その色々なイメージをすり合わせ、現地の色は残しつつ自分なりのガトーバスクに仕上げました。特に食感にこだわりが入っております(戸谷シェフパティシエ談)」
『メゾン・ダーニ』のガトーバスクは、焼きたてを味わってほしいという願いで、一個一個を包装せず手間をかけて毎日何回も焼いている。だから、あの箱を開けた時のゴージャスな香りが、シェフの想いと共に、知らず知らずのうちに私の記憶に残ったのだ。私の脳は、箱を開けた時の香りや、一口頬張った時のバターとアーモンドの織りなすサクサク感の裏に隠されたシェフの情熱にノックアウトされたのではないだろうか。愛と情熱がなければ、あの味を一年以上も記憶にとどめられるわけがないし、不意に出てくることもなかっただろう。最後まで残るものは、目に見えるものではないのだ。
ここで、またしても、自分の少々こだわった味覚にほくそ笑む私であった(笑)。
MAISON D'AHNI Shirokane
メゾン・ダーニ
http://mdahni.com/
東京都港区白金1-11-15
営業時間:7時~19時(火曜定休)
※電話での予約可能
※掲載情報は 2018/03/06 時点のものとなります。
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キュレーター情報
料理家、ライター
中尾明美
東京都生まれ。一男一女の母であり、孫も持つ。五代続く医者の家に育った生い立ち、健康食品製造販売会社の代表を務めた経緯やがん克服経験から、医食同源を目指した食生活を推奨している。「DEAN & DELUCA」キッチンスタッフ、「リストランテアロマクラシコ」キッチンスタッフを経て、イタリアフィレンツェの料理研究家に師事し、現在も厨房に立ちつつ、会費制食事会「プライベートダイニングRoom A’s Tokyo」、料理教室「Class A’s Kitchen」、出張料理「A’s Kitchen」を主宰。食材・調理器具と波動を合わせた調理、化学調味料を使わない優しい味にはファンが多い。2018年4月よりELLEgourmetフードクリエイターメンバー。