南部せんべい
有限会社羽沢製菓
おそらく日本全土で、煎餅と饅頭が無い地域はないのでは。長寿の寿ぎで「鶴は千年、亀は萬年」という言葉から「煎餅は千年、饅頭は萬年」なんてのは無いかと思いましたが、残念ながらありませんでした。しかし、煎餅は何回も裏返して焼くので『千遍(せんべん)返し』と呼ばれ、それが訛って『せんべい』になったという説や、安土桃山時代の千利休の門人”幸兵衛”が小麦粉に砂糖を混ぜて焼いた菓子を作り、千利休の千の一字をもらい”千幸兵衛(せんこうべい)と称し、これが”せんべい”という謂われもあり、まんざら数字の千とも縁が無いわけではなさそうな。
盛岡市の郊外に「盛岡手づくり村」という施設があります。ここは地域の地場産業振興のための施設で中には15の手づくり工房もあり、一度その中のひとつの南部せんべいを自分で焼くという体験をしました。1回100円で丸くした生地を鉄の型に入れて裏返しながら3分で南部せんべいが焼き上がるのですが、普段焼きたての熱々のせんべいなど食べる機会はないので面白い体験でした。この南部せんべいは岩手県を代表するせんべいで、謂われは「建徳年間(1370-1372)に長慶天皇が南部地方を巡幸の際、日が暮れて夕食の用意もなくお困りの時、家臣の赤松が近くの農家から手に入れた「そば粉」を練って、鉄かぶとに入れて焼き、上から「ごま」をふりかけて天皇に差し上げたところ大変お喜びになりました。」これが南部煎餅の始まりと言われています。(盛岡手づくリ村より)
南部せんべいは、八戸南部氏が藩主家だった旧八戸藩地域に伝承した焼成煎餅で、青森県、岩手県全域が主な生産と消費地なのです。せんべいの材料は関東ではうるち米、関西は餅米が多いのですが、南部せんべいは小麦粉を使っており、現在は南部小麦粉を使ったものではないと南部せんべいとは名乗れないのです。(「南部せんべい」の名称は、岩手県南部煎餅協同組合が商標登録しています)盛岡手づくり村で南部せんべい体験をした時に、このせんべいは地場産業のひとつでもある南部鉄器があって成り立つものだと思ったのです。岩手の南部鉄器の歴史は古くは平安時代から、良質の砂鉄、木炭、砂、粘土が豊富にあり発達しました。その南部鉄器が日常的にあるために、南部せんべいを焼く道具としての鉄器が盛んに作られたのです。
今回ご紹介する南部せんべいは、八幡平市の羽沢製菓のもので、地元では「おじいちゃんの南部せんべい」と親しまれ、南部せんべいの伝統を継承する老舗なのです。小麦粉は岩手県産の南部小麦を使用し、添加物を一切使用しておらず、水と塩を加え、練り上げた生地を切り分け、南部鉄の皿に乗せ、現在でも1枚ずつ手焼きをして作っているのです。羽沢製菓の南部せんべいには「馬印一番」という刻印があるのですが、先代まで家に馬がいて、『馬印』をデザイン化しているのです。この「馬印」は印の他にも意味があるのです。熱い鉄皿の上に生地を乗せると生地が冷たいほうへ逃げようとするのを防ぐために、真ん中に抑えるために「馬印」が刻印されているのです。伝統的な胡麻や落花生の他にちょっと厚焼きのクッキータイプの南部せんべいミックスもあるのです。ピーナッツ、パンプキンシード、くるみ、白胡麻にアーモンドとちょっと洋風な味もいけます。子どもの頃のおやつによく南部せんべいを食べていましたが、一番好きな部分は南部せんべいを作る際に小麦粉が滲んで出来た「みみ」の部分でした。現在のように派手で味も濃い菓子に比べると、見かけも味も地味な南部せんべいですが、噛んでいるうちに小麦粉のサクサクした味に誘われて気が付けば、何枚も食べているのです。長慶天皇の御代から数えて650年ほど、南部せんべいも本当に千年せんべいを目指して欲しいものです。
住所:岩手県八幡平市清水141−5
電話番号:0195-72-3020
有限会社羽沢製菓
※掲載情報は 2017/07/28 時点のものとなります。
アートディレクター・食文化研究家
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
後藤晴彦は、ある時に料理に目覚め、料理の修業をはじめたのである。妻のことを“オクサマ”とお呼びし、自身はお手伝いハルコと自称して、毎日料理作りに励んでいる。
本業は出版関連の雑誌・ムック・書籍の企画編集デザイン制作のアート・ディレクションから、企業のコンサルタントとして、商品開発からマーケティング、販促までプロデュースを手がける。お手伝いハルコのキャラクタ-で『料理王国』『日経おとなのOFF』で連載をし、『包丁の使い方とカッティング』、『街場の料理の鉄人』、『一流料理人に学ぶ懐かしごはん』などを著す。電子書籍『お手伝いハルコの料理修行』がBookLiveから配信。
調理器具から食品開発のアドバイザーや岩手県の産業創造アドバイザーに就任し、岩手県の食を中心とした復興支援のお手伝いもしている。