色町の近くに美味いものあり

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いまもていねいに手作りされる薯蕷饅頭

「色町洋食」という言葉は、1951年から68年まで刊行された鶴屋八幡のPR誌『あまカラ』の顧問を務め、同誌の装画も手がけた大久保恒次が、著書『うまいもん巡礼』で古川緑波の用いた概念として紹介しているそうだが、当の緑波は「ところが、僕は、色町洋食なんて、うまい言葉は使ったことがないんだ」という(『ロッパの悲食記』所収「色町洋食」)。「僕の所謂日本的洋食を、大久保さんが、うまいこと言い変えて下さったもの。然し、色町洋食とは、又何と、感じの出る言葉だろう」(同前掲)。色町とは東京でいう花街、花柳街のこと。緑波曰く関西でしか通じない言葉だという色町だが、それが花街を指す言葉であると知らなくても、字面からなんとなくニュアンスが伝わってくるのではないだろうか。


「色町洋食」では大阪の宗右衛門町、京都の祇園や先斗町の洋食屋での芸妓と洋食の思い出が綴られている。なるほど、洋食に限らず、花街は食べ物との関わりが深い(いうまでもなく「三業地」は料理屋、待合茶屋、置屋からなる)。川島雄三の代表作のひとつである映画『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年)では、三橋達也と新珠三千代演ずる文無し、宿無しのカップルが住み込む小体な酒場「千草」をはじめ、男が出前持として働く蕎麦屋、女がラジオ屋(秋葉原の電気店)の男と行く寿司屋などを見ることができる。洲崎とは現在の江東区東陽町一丁目。明治になると、根津の遊郭が東京帝大本郷校舎建設のためこの地に移転し、吉原と並ぶ大規模な歓楽街として栄えた。第二次世界大戦の東京大空襲で大きな被害を受けるも、戦後すぐ、洲崎遊郭は「洲崎パラダイス」の呼び名で復興。その最後期の街並がフィルムに収められているのが『洲崎パラダイス 赤信号』である。

 

 祇園や先斗町と違って、東京の花街はその痕跡をとどめているところはあまり多くはない。先の洲崎もそうだし、品川や新富町などもそうだ。「明治の初年に吉原が焼失したみぎり、仮宅として新富町のところへ、一時営業が許可されたのが、新富町の『島原』でさア、京の島原を張ったもので、ソノ実マドロスの遊び場所ともなって、明石町に居留地のある頃ですから、毛唐が随分遊びゃアがったところですぜ。」これは、篠田鉱造の『明治百話』の「新富町島原の遊び上手」の冒頭部分であるが、いまこの界隈を歩いてもかつてそこに遊郭があったとは思いもよらない。何しろ旧居留地は聖路加国際病院になっているし、新島原はたった三年ほどでその役目を終えてしまったのだから。

 

新富町の「新島原」は、主に居留地の外国人を客にしようと目論んでいた。新島原ができるほんの少し前、「築地ホテル館」が完成したことも後押しになっていただろう。しかしその読みは外れ、わずか三年で撤廃となってしまったのは先に述べた通りである。ちなみに築地ホテル館も1872年(明治5年)に火事のためなくなってしまった。

 

新島原の跡地がどうなったかというと、江戸三座のひとつとして知られていた木挽町の森田座(のちに守田座)が1872年(明治5年)に移転してきた。その後守田座は「新富座」と改名。1876年(明治9年)に一度焼失するも、1878年(明治11年)に再建された。居留地に近いこともあって、日本で初めて椅子席が用いられ、また舞台の内外にガス灯を採用するなど、モダンな設備を擁していた新富座のまわりには、いわゆる芝居茶屋が建ち、したがって芸妓も多かった。しかし、芝居小屋としての新富座は関東大震災まで。震災の翌年からは、明治の終わりに新富座を買収した松竹の封切映画館となる。とはいえ、花街としての性格が突如なくなるわけはなかった。4歳から高校1年までをこの新富町で過ごした美術家・秋山祐徳太子は「戦前から戦後まもなくまでの新富町は、のどかで粋な花街。待合や置屋があって、横丁に流れる三味線の音色が何とも色っぽくて。」と語っているが(朝日新聞DIGITAL 2010年5月18日「美術家・秋山祐徳太子 追憶の風景 新富町(東京)」)、よく注意して街を歩けば、ほんのかすかに残る当時の面影をいまでも見つけることができる。

 

さて、花街と食べ物の話であった。創業慶応元年(1865年)という「蛇の目鮨本店」、創業明治6年(1873年)の料亭「躍金楼(てっきんろう)」などの老舗、あるいはご存知築地の場外市場があるこの一帯には、なんとその起源を室町時代まで遡ることができるという店がある。「塩瀬総本家」である。同店のホームページによれば、1349年(貞和5年)、宋で修行を終えた龍山徳見禅師が帰国する際、一緒に来朝した俗弟子のひとりの中国人、林淨因が奈良に居を構え、饅頭を作って売り出したのがその歴史の始まりという。林淨因の子孫は奈良と京都に分かれて饅頭屋を営むが、応仁の乱に際して京都を離れた林家は親戚関係にあった豪族の塩瀬家を頼って三河国に住み、姓を塩瀬に改めて、再び京都に戻った。その後も名将に愛された塩瀬の饅頭だが、江戸開府と同じ頃、江戸に店を構え、将軍の御用となり、明治維新以降は宮内庁御用達となる。


現在の塩瀬総本家があるのは明石町だが、ここへは戦後に移ってきた。もともとは有楽町にあった本店が戦災で焼け、工場だった明石町は戦火を逃れたためである。旧居留地であった明石町は、聖路加病院があったこともあり、特例的に空襲から外されたのだ。

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こちらの名物といえば「志ほせ饅頭」だろう。大和芋を使った皮に餡を包んだ一口サイズの薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)である。大和芋は毎日擂り下ろしてとろろ芋にし、上新粉と砂糖を加え、捏ねる。こうして独特の食感と味わいのある饅頭が作られる。いまでももちろん手作りである。今回は9個入りを一箱買い求めることにした。


箱を開けると「東京名物 塩瀬饅頭」と書かれたしおり。元は奈良、京都(さらに辿ると中国)ではあるが、江戸開府から数えても相当の年月を経ているので、東京名物と名乗ってもなんら違和感はない。しおりの絵にどことなく中国風味を感じるのは、その出自によるものだろうか。

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先に述べた通り「志ほせ饅頭」は一口サイズなのだが、これが開発されたのは32代当主の頃だというから比較的新しいものだ。一般的なサイズの本まんじゅうを時代に合わせて小ぶりにした志ほせ饅頭は、大和芋の皮の適度な軽さと、上品でくどさのない餡の甘さが実にいい。餡に使われる小豆は、北海道は十勝平野にある音更(おとふけ)町産のものだけだそうだ。

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塩瀬の饅頭は百貨店でも購入が可能だが、明石町の総本家まで足を運ぶのをお勧めしたい。塩瀬総本家から隅田川まではほんの数分。河岸のベンチに腰を下ろして行き交う舟を眺めつつ饅頭をいただくもよし、散歩がてら勝鬨橋まで足を伸ばすもよし。晴海通りを右に曲がれば築地の場外市場や築地本願寺、それを過ぎて銀座まで出るのも悪くないだろう。途中、「波除神社」があるので、お参りも忘れずに。

※掲載情報は 2016/01/31 時点のものとなります。

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青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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