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サラサラしたドレッシング替わりにも使えるソース
よく目玉焼きの味付けで、あなたは「醤油派」?「ソース派」?という設問があります。塩やトマトケチャップが好きという人もいますが、私は目玉焼きは絶対に「ソース派」なのです。子どもの頃は醤油味の料理に対して、ソースはなんて“ハイカラ”なんだろうと思っていました。長じてもソースの蠱惑的(こわくてき)な味と香りに魅了されているのです。同じ香ばしい香りでも、醤油の焦げた香りと、ソースの焦げた香りはずいぶん違います。縁日のソース焼きそばの抗しがたい香りは、幼少の頃から現在に至るまで好みのランキングは高いのです。(ちよっと情けないですがね)
仕事で、神戸発(初)の色々な食文化を調べる必要があり、現地で取材しているライターさんにお願いして取寄せたものが、阪神ソースの「敬七郎ソース」なのです。「敬七郎ソース」の謂われは、安井敬七郎という代々、仙台藩おかかえの藩医であった安井家の十三代目当主で、仙台藩主設立のした『養賢堂』で医学を習得して、その後、東京でドイツ工学博士ワークネル教授に師事し、工業化学をも学んだそうです。その教授と共に訪れた神戸で食事をした際、『神戸には美味しい肉があるのに、どうして日本には美味しいソースがないのでしょう』(HPより引用)という教授の言葉が敬七郎のソース造りの道への始まりであると、言い伝えられているのです。
そして、安井敬七郎は当時の輸入されていたソースをベースに、より日本人に合ったソースをと日々研究を重ね、明治18年(1885年)香り高い褐色の液体を創りあげました。それが阪神ソースのはじまりであり、日本のソースのはじまりとも言われています。しかし当時は、販売には非常に苦労し安井敬七郎は、唯一の販売ルートである薬屋さんにその販路を託していたそうです。話は少しずれますが、日本のカレーメーカーの多くは江戸時代から続いている薬問屋(漢方)をルーツにもっています。漢方の生薬がカレーのスパイスと重なっているのです。
「ハウス食品」や「ヱスビー食品」はそれぞれ、大阪の薬種問屋から出発して現在の日本のカレー文化を支えているのです。話を安井敬七郎に戻しますが、明治25年(1892年)海外視察団に参加した敬七郎は、イギリスへ渡り、世界最古のソースメーカー『リー&ペリン』社を訪ね、ソース造りの指導を受けて帰国して、地元神戸市に『安井舎蜜工業所』として本格的なソース工場を新設し、国産ソースの基礎を創りはじめて現在に至り、国内で一番古いソースの誕生だったのです。ソースもカレーも一度イギリスの影響を受けているのです。
そんな、歴史のある「敬七郎ソース」は、当時のレシピに近い方法で添加物を一切使わずに製造しているそうです。 原材料は、野菜、果実(たまねぎ・トマト・りんご・にんじん・ガーリック)、砂糖、醸造酢、食塩、香辛料で、「ドロッ」ではなく「サラサラ」したソースです。また、「SUNRISE in 1984」は1984年阪神ソースの創業100周年を記念として誕生したものだそうです。トンカツやコロッケにかけて使いますが、意外にキャベツとの相性もよく、サラサラしている分ドレッシング替わりにも良いのです。さらに、子どもの頃からカレーにはソースをかけて食べるのが大好きでしたが、今やそんなことをわが家ですると……。あぁ、思いっきりカレーライスに「敬七郎ソース」をたっぷりかけて食べたい!
※掲載情報は 2016/01/05 時点のものとなります。
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キュレーター情報
アートディレクター・食文化研究家
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
後藤晴彦は、ある時に料理に目覚め、料理の修業をはじめたのである。妻のことを“オクサマ”とお呼びし、自身はお手伝いハルコと自称して、毎日料理作りに励んでいる。
本業は出版関連の雑誌・ムック・書籍の企画編集デザイン制作のアート・ディレクションから、企業のコンサルタントとして、商品開発からマーケティング、販促までプロデュースを手がける。お手伝いハルコのキャラクタ-で『料理王国』『日経おとなのOFF』で連載をし、『包丁の使い方とカッティング』、『街場の料理の鉄人』、『一流料理人に学ぶ懐かしごはん』などを著す。電子書籍『お手伝いハルコの料理修行』がBookLiveから配信。
調理器具から食品開発のアドバイザーや岩手県の産業創造アドバイザーに就任し、岩手県の食を中心とした復興支援のお手伝いもしている。