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フランス菓子研究家 大森由紀子さん
高校生の頃に出会ったフランス菓子に魅入られて以来、パリで菓子作りを学ぶという夢を叶えるため、一度は就職して留学資金を貯めたという大森さん。そのまっすぐで気さくな人柄と、会う人を笑顔にする軽妙なトークで、国内はもとよりフランスにも幅広いネットワークを持っています。フランス菓子や料理の書籍を多数持つことでも知られ、若手パティシエたちが「ゆきねえ」と慕う大森さんに、ご自身の活動拠点であるフランス料理・菓子教室「エートル・パティス・キュイジーヌ」にて、お話を伺いました。
あの有名パティシエとも一緒だった?! パリでの2年間
Q:大森さんが、フランス菓子に魅力を感じるようになったきっかけを教えてください。
大森さん:私は東京の下町で生まれ育ちましたが、「ごきげんよう」と声を掛け合うような名門のお嬢様や、有名人のご子息も通うような高校へ入ってしまったんです。ちょうどその頃、「ルコント」などフランス菓子のお店が日本に進出し、マスコミを賑わせるようになっていました。私は初めてそれを見て「世の中にはこんなに素敵なお菓子があるんだ!」と感動しちゃって。普通なら「食べてみたい」で済むところ、私は「作ってみたい」と思ったんですね。どうやって作るんだろう、いつか作ってみたい……と。
そんなある日、お友だちの家に遊びに行くと「今日はママが手作りのケーキを焼いているから食べていってちょうだい」と言われたんです。「えー!お母様が手作りのお菓子を?! 家ではありえない!」と驚きましたが、すぐに「私にも作れるかしら?」と試したくなって、初めてケーキ型を買いました。いざ作ってみるとすごく面白くて。自分で作れば買わなくて済むし、一度に何個も作れてみんなも喜んでくれる。こんなにいいことはない!と病みつきになり、毎週末お菓子を作るようになりました。
Q:その後、銀行にお勤めになっていますが、どのタイミングでフランスへ行かれたのですか?
大森さん:大学卒業後の進路として、お金があればそのままフランスに留学できたのでしょうが、私にはお金を貯める必要があったので、まずは就職する道を選びました。いろいろ調べた結果、パリ国立銀行の給料が一番高かったので、早速履歴書を送りました。ところが、大学卒業後すぐには採用しないということで門前払い。大学の教授に相談したところ、教授の紹介でテレビ局の契約社員として働けることになりました。そこでは、営業局長の秘書として毎日のように大手広告代理店の方たちと美味しい料理やお酒を楽しんだりして……。バブルの最盛期ですから(笑)。そして4ヶ月ほど経った頃に、パリ国立銀行から電話をいただき、面接を経て翌週から東京支店で働くことが決まりました。テレビ業界から金融業界という、まるっきり反対の世界。最初は慣れるまでが大変でしたね。そこで4年間働いて、貯めたお金で念願のフランスへ渡りました。私の場合、フランス系の銀行で働いていただけに、現地にも友人・知人のつてがあったのが幸運でした。それに「私はフランスへ行く!」と常日頃から周囲に話していたこともあり、いろんな人たちが協力してくれました。
Q:フランスでは「ル・コルドン・ブルー」へ入学されましたが、その頃のエピソードを教えてください。
大森さん:最初の1年間は料理、次に半年間でお菓子を学びました。グランディプロム(最終終了証)を取得してからもお店で研修を続けて、トータル2年間をパリで過ごしました。でも、最初の3カ月は毎日泣いていたんですよ。フランス人が意地悪で(笑)。お店に入った時の対応や言葉使いにも「冷たい」と感じてしまって。学校のシェフたちにもなじめなくて、今はそうじゃないと思いますけれど、お気に入りの子には「トレビアン」をあげたりして。でも、そういう悔しい思いをした時に、めげて帰ったりしないのが私なんです。そういう状況だからこそ、立ち上がっちゃう。要するにしつこいの(笑)。
次の過程に進むための試験はどれも大変だったけれど、最後の卒業試験は特に難しかったですね。みんなの前でフランス語で説明しながら3人1組で料理とお菓子を作るという内容。私はお菓子の担当になりました。試験当日は奇しくも私の誕生日。だったら自分の誕生日ケーキを作ろうと決めました。毎日遅くまで練習して当日を迎えたわけですが、試験官のシェフが私の作ったケーキを味見して「セ・トレボン!(うまいじゃん)」と褒めてくれたんです。そして私の誕生日だと伝えると、生徒の1人にお金を渡し「由紀子のためにお祝いだ。シャンパンを買ってこい」と言ってくれて。みんなに祝ってもらえて、すごく嬉しかったです。あんなに意地悪だと思っていたシェフも、意外といい人だったのねと思いました。実力を認めてもらえた証拠ですよね。めげないで頑張ってよかった。今も私の支えになっている経験の一つです。
Q:パリの名だたるお店で修行された経験をお持ちですが、どのようにしてそのようなチャンスを掴んでいたのですか?
大森さん:通っていた学校は週3回しか授業がなかったので、残りの時間を使っていろんなお店で修行させてもらいました。当時まだ一ツ星だった「アルページュ」とか「アンブロワジー」へ食べに行っては「ここで働かせて欲しい」と自分を売り込みましたよ。特に「アルページュ」は、初めて食べて「これは面白い!」と感動したんですよ。そして3回目に訪れた時にシェフに声をかけて「私はここに3回食べに来ました。大感激したので、厨房で働かせてほしい」と伝えました。最初は「女性の着替える場所がないから……」などと逃げられたのですが、私のあまりの熱心さにシェフが根負けして「じゃあ明日から来い」と言ってくれました。もう20年以上前のことですが“厨房で働いた最初の日本人女性”として、今でも私が訪れると温かく迎え入れてくれます。フランスにおけるネットワークはこの時に養いました。
世界一輝いていたお菓子屋さん「フォション」で働いていたのも同じ頃です。向こうからお相撲さんみたいな体型のシェフが歩いてきて、それがピエール・エルメでした。彼は26歳という若さでシェフに上り詰めた人物だったので、若干26歳だけど、周囲を圧倒するシェフとしての器みたいなものを感じましたね。私の作ったクロワッサンを目の前で捨てられたこともありました。「フォション」には世界中から腕利きのパティシエが集まっていて、お菓子は当然美味しく最高級じゃなきゃいけない、というプライドを持っているお店でした。だから、ちょっとでも形が崩れているとダメなんです。フルーツの盛り方一つにしても、「ここはフォションなんだから、もっと盛らないとお客様は満足しない」という具合で、みんなが誇りを持っていましたね。あの頃が黄金時代ではないでしょうか。エルメのほかにも世界的にその名が知られるような、そうそうたるメンバーが働いていましたから。面白かったですよ。そうやって、いろいろなお店で修行をさせてもらって、いろんな経験を積みました。
フランス菓子研究家として、時にはマイクも握ります!
Q:フランス菓子研究家として、現在どのような活動をされていますか?
大森さん:軸になる仕事は、フランス料理・お菓子教室の運営です。加えて雑誌の連載や取材、書籍などの執筆、イベントも時々企画しています。製菓学校での公演や、トークイベントへの出演などもありますね。私が「フランス菓子研究家」を名乗るようになったのは、20年前に初めて料理の本を出した時。著者プロフィールに入れる肩書きが必要になり、私はフランス菓子を研究していると思ったので「研究家」としました。
Q:教室を開くようになったのはいつ頃ですか?
大森さん:フランスから日本に帰り、その頃住んでいた日吉(横浜市)の自宅で始めたのが最初です。特に仕事をしていなかった私に、パリの友人から「パリのホテル・リッツの地下に新しく料理学校ができるから日本で広めてほしい」と声がかかりました。パソコンもメールも無い時代だったので、料理雑誌に売り込んで、問い合わせのあった受講希望者にパンフレットを送ったりしてお手伝いしました。それが1988年に創立された「リッツ・エスコフィエ料理学校」です。
その一方、ライターの友人からの紹介で、外食産業の雑誌編集部からお仕事をいただくようになりました。最初は背に腹は変えられないと思っていましたが、本当にやりたいのはフランス菓子の仕事。路線が違うことに耐えられなくなって、ついに編集長に直談判したんです。するとすぐに、フランス菓子についての6ページの特集を用意してもらえました。そして、その特集を見たという方から「お菓子教室はやっていないの?」という電話をいただいたのがきっかけで、ついに初めてのお菓子教室を開くことになりました。その方と1対1というわけにはいかないので、近所のスーパーを回って掲示板に案内を出したところ、4〜5人が集まりました。「フランス帰りです!」、「リッツ・エスコフィエ料理学校の日本窓口やってます!」と書いたのが良かったのでしょう(笑)。マンションと呼ぶのも気がひけるような古い集合住宅の自宅で、「こんなところで大丈夫かしら?」と初めは不安でした。でもこれが好評で、生徒数が増えるに従って手狭になってしまい、近くのお花屋さんのスペースを借りました。これが2箇所目。あの頃、日吉には料理研究家の栗原ひろみさんや藤野真紀子さんも住んでいたので、3人で道に立って話したりして……。だから今も思い出深い街ですね。
今の場所(目黒区祐天寺)に移転してからは、もう10年以上になります。現在は月3回、土日のみの開催で70人くらいの生徒さんがいます。1回12人ほどで、私がデモンストレーションで作ったお菓子やお料理を試食するというスタイル。生徒さんたちが私の一挙手一投足に注目しているので、気が抜けませんね(笑)。地方から通っている方も多くて、世代は幅広いですよ。男性もいらっしゃいますし、料理番組のプロデューサーや雑誌の編集者、もちろん主婦の方たちや学生さんも。私の教室では、単に作り方を伝えて終わりではなく、その背景にある歴史や名前の由来などもお伝えしているんです。まあ、多くは私の脱線話なんですけれど…。時々シャンソンを歌うこともありますからね。以前はホイッパーをマイク代わりにして歌っていたけれど、最近になって本物のマイクを買っちゃいました(笑)。
日本のフランス菓子は世界にひけを取らない!
Q:日本のフランス菓子は、世界的ではどのように見られていますか?
大森さん:世界でも注目されていると思います。特に韓国や台湾から日本にフランス菓子を学びにくる人が増えていますね。フランスより近くて、材料も揃っているし、テクニックもフランス人と対等ですし、日本人は親切ですし! フランスのパティシエたちも日本に来てはいろんなお菓子屋さんを渡り歩いていますよ。
Q:最近注目している日本のパティシエはいらっしゃいますか?
大森さん:今後のパティスリー業界を担う人材で、今イチオシなのが「ラ・ローズ・ジャポネ」(葛飾区)の五十嵐宏シェフですね。彼は元マンダリンオリエンタル東京のペストリーシェフで、当時私が取材に行くといつも大きな声で元気に挨拶してくれました。後輩の面倒見も良くて、もちろんお菓子も美味しい。パティシエの間でも「彼のお菓子は何を食べてもハズレがない」と評価が高いですよ。それに加えて日々の研究を怠らない姿勢。そういう人が今後の業界を率いていくのだと思います。まさに「菓子は人なり」ですね。
Q:パティシエを夢見る若い人たちにメッセージをお願いします。
大森さん:最近の若手シェフたちを見ていると、人間関係で「波風を立てない」とか「傷つけ合いたくない」という今どきの若い人たちに共通した“守りの姿勢”を感じることがあります。それがお菓子の味にも出ちゃう。これからパティシエ、パティシエールを目指す若い人たちには、そういう自分の殻を破って自己表現できるようなお菓子作りを目指して欲しいですね。もちろん美味しいことが大前提なので、そのためにはちゃんと基礎を学ぶことも大切。上っ面だけじゃない、一本筋の通ったお菓子を作って欲しいと思います。
【プロフィール】
学習院大学文学部仏文科卒。パリ国立銀行東京支店での勤務を経てフランスへ渡り、料理・菓子学校の名門「ル・コルドン・ブルー」で学ぶ。パリ滞在中に「ツール・ダルジャン」「アンブロワジー」「アルページ」「フォション」「ホテル・ニッコー」などで修業し、ピエール・エルメやジャン・ポール・エヴァンとともに仕事をする。帰国後は、フランスの伝統菓子や地方菓子などストーリーのあるお菓子と、フランス人が日常で楽しむお惣菜をメディアを通して発信中。目黒区祐天寺にてフランス菓子と惣菜教室を主宰。フランスの伝統&地方菓子を伝えるクラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワの理事。また、「貝印スイーツ甲子園」のコーディネーター、「ル・コルドン・ブルー」の卒業生代表を務める。毎年1回、フランスの地方の食を訪ねる「フランスお菓子紀行ツアー」を開催。主な著書は「フランス地方のおそうざい」「私のフランス地方菓子」「パリ・スイーツ」「フランス菓子図鑑」など30冊以上。
※掲載情報は 2015/04/27 時点のものとなります。
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