サクサク、シャリシャリ––––澁澤龍彦の鎌倉

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鎌倉の四季を表した干菓子

2017年はフランス文学者・澁澤龍彦の没後30年にあたる年である。没後30年ということで、10月からは世田谷文学館で企画展「澁澤龍彦 ドラコニアの地平」が開催されるなど、何かと澁澤関連の話題が多い一年だ。ご存知の方も多いと思われるが、念のため手短に説明しておくと、澁澤龍彦は1928年東京生まれで、ジャン・コクトー、マルキ・ド・サドなどの翻訳、中世ヨーロッパの悪魔学や秘密結社についての論考、美術評論、エッセイ、幻想小説といった作品を多数遺している人物。晩年に咽頭癌を発症し、1987年8月に亡くなった。

 

私が澁澤龍彦の著作を読み始めたのは高校生の頃だった。ちょうどそれまでの単行本が文庫化され、入手が容易になったタイミングである。何しろタイトルからして魅力的なものばかりで、貪るように読んだ。澁澤龍彦が亡くなった1987年は私が大学に入学した年で、つまり氏の存命中ということでいえば3年ほどしか読者でいなかったことになるのだが、それから30年間、実によく読んだ。澁澤龍彦の著作は間違いなく自分の血肉の一部になっていると断言していい(同様の存在として、ドイツ文学者の種村季弘がいる)。現在、私が『ミセス』(文化出版局)で連載している「音楽マルジナリア」は、実は氏の書籍のタイトル『マルジナリア』にちなんでいる。かつて澁澤も『ミセス』に連載を持っており(単行本『夢のある部屋』として出版されているもの)、そのことへのオマージュも込めたうえで採用したのだった。

 

ところで、先に澁澤龍彦は東京生まれと書いたが、鎌倉の人というイメージが強いということに異論はないだろう。「鎌倉に住みついてから、かれこれ三十数年たってしまった。戦前までは東京に住んでいたが、いまではもう、私の五十年にわたる半生のうちで、鎌倉に住んだ期間のほうがずっと長くなってしまった。いつのまにやら鎌倉は、私の生活と切っても切れない関係にある土地になってしまった」と、「鎌倉今昔」というエッセイ(『太陽王と月の王』所収)の冒頭で語っている通りである。メディア上で我々が目にする澁澤の家は北鎌倉にあって、龍子夫人が今も暮らしていらっしゃる。紫陽花で有名な明月院の近くである。その前は鎌倉の小町にあった「古い二階屋で、ここには昭和三十八年までは電話もなく、サド発禁の報も出版元からの電報で知った」(種村季弘『澁澤さん家で午後五時にお茶を』所収「澁澤龍彦・その時代」)。「サド発禁」とは、澁澤訳のマルキ・ド・サド『悪徳の栄え 続』が猥褻だとして起訴されたいわゆる「サド裁判」による発禁処分のことである。

 

小町の家でも北鎌倉の家でも共通していたのは、深夜あるいは翌朝まで続く酒宴だったという。先に引いた『澁澤さん家で午後五時にお茶を』に収められた同名のエッセイには、その消息が書かれている。曰く「午後五時のお茶は六時にはお酒になり、それがいつしか深更に及んだと書いたが、じつをいえば翌朝に及ぶこともしばしばだった。それから午後も遅くまで寝て、起き出すと鎌倉の山を散歩し、そうしてまた午後五時のお茶になって、というふうに、しかも流連(いつづけ)は三、四日もえんえんと続くことが稀ではなかった」(「澁澤さん家で午後五時にお茶を」)。何ともはや、である。しかし、一番すごいのは当家主人の澁澤龍彦だ。「前の日にさんざん飲んで、普通の人なら当然二日酔いのところをケロッと起きてきて、『おい、鰻重とってくれ』」(澁澤龍子『澁澤龍彦との日々』)。龍子夫人が澁澤龍彦と過ごした18年間の思い出を綴ったこのエッセイには、氏の好んで食べたものも記されていて、それは「だいたいシャキシャキ、カリカリと歯ごたえのある蓮根、慈姑の薄切り唐揚げ、チョロギなど」だという(前掲)。かっちりとして明晰な氏の文章、あるいは貝殻や鉱物を好んだ性質ともリンクする嗜好なのが面白い。

 

さて、曲がりなりにもこの小文は食物エッセイであるから、澁澤好みの食べ物を紹介してみてはどうか。そう考えてみたが、上記のような本当に好きだったものをそのまま選んでも芸がない。どうしたものかと思っていたら、「鳩サブレー」で知られる「豊島屋」の売店に面白いものを見つけた。「鎌倉の彩」という菓子である。品名も実にぴったりだ。一箱お願いしたところ、きちんと包装されたものが出てきた。包み紙は鳩でなく鶴のようだが、おそらくこれは鶴岡八幡宮に由来しているのだろう。

サクサク、シャリシャリ––––澁澤龍彦の鎌倉

 

包装紙を解くと、ご覧のように「鎌倉の彩」と書かれた紙が一枚かけてある。4色のラインは、鎌倉の四季それぞれのイメージを色に託したものと思われる。この紙を外すと、金銀を上品にあしらった上蓋となる。

 

サクサク、シャリシャリ––––澁澤龍彦の鎌倉

 

箱の中には、笊のような器に色とりどりの干菓子。干菓子とは生菓子と対になる言葉で、文字通り水分の少ない乾いた菓子のことをいう。具体的には、おこしなどの「煎り種」、煎餅に代表される「焼き種」、落雁などの「打ち物」、糖蜜をかけた「掛け物」や有平糖で作られる「有平物」がある。「鎌倉の彩」はほとんどが「打ち物」である。

 

サクサク、シャリシャリ––––澁澤龍彦の鎌倉

 

ひとつひとつは小さめだが、主に落雁なのでこのサイズがちょうどいい。くどい甘さはなく、上品な味わいである。食感はものによって異なり、サクサク、シャリシャリとしている。完璧な澁澤好みの食感とはいえないかもしれないが、そもそもが食事的な料理と菓子なので、いわば土俵が違うという理解でいいだろう。この「鎌倉の彩」のユニークなところは、笊のような器(本品に封入されている注釈によれば「箕」つまり穀類をふるう農具を模しているとのこと)が、すりおろした山芋、和三盆、寒梅粉などでできていて、こちらもれっきとした菓子であるところ。また、鎌倉の四季を表現しているそうで、季節によって干菓子の内容が変わるのだという。なるほど、ふるいにかけて選りすぐった季節の収穫物、風物詩ということなのだろう。

 

サクサク、シャリシャリ––––澁澤龍彦の鎌倉

 

先に引いた澁澤龍彦の「鎌倉今昔」には、氏が少年時代に見た、豊島屋についての記述もある。「いまでも八幡通りに、鳩サブレーで知られる豊島屋があるが、ここは、昔はしゃれたパーラーのようになっていて、お茶を飲むことができた。パリの喫茶店のように。道にまで椅子が出ていたとおぼえている」。八幡通りとは鶴岡八幡宮に続く参道のことだろう。豊島屋のホームページによれば、最初の店舗は関東大震災でなくなってしまい、今の本店の場所に再建したのだという。澁澤龍彦が懐述しているのはここのことだ。かつては立派だった参道の松並木や、駅前にいた「イギリスの王族の乗るような、無蓋の金ぴかの馬車」(!)など、「鎌倉今昔」と豊島屋のホームページの記述がぴたりと合致している。ちなみに現在は本店にはカフェはなく、鎌倉駅前扉店の2Fにカフェ、3Fにパーラーが置かれ、また本店近くには甘味処「八十小路(はとこうじ)」もある。少年時代の澁澤龍彦が見ていた静かな鎌倉は、いまやすっかり賑やかになったが、豊島屋のカフェ、パーラー、甘味処に腰を落ち着け、当時の様子を想像してみるのも悪くないと思った8月の終わりであった。

 

※掲載情報は 2017/09/09 時点のものとなります。

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キュレーター情報

青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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