【クローズアップ】ここらでちょっと掻き回すのが自分の役割 ロバート・ハリス

【クローズアップ】ここらでちょっと掻き回すのが自分の役割 ロバート・ハリス

記事詳細


波乱万丈な人生という言葉は、この人のためにある。そう思わずにはいられないほど、豊富な人生経験による物語が尽きないロバート・ハリスさん。海外で18年間を過ごし、日本に戻ってからはラジオ番組のDJや作家としても活躍。多くの若者から絶大な支持を集める理由とは? 海外での日々や夢を叶えてきた過程とは? ハリスさんの地元・横浜市白楽でインタビューしてきました。

歩くことが好きだった幼少期から「旅」していた

Q:本日こうして白楽駅周辺でインタビューをさせていただくわけですが、白楽という街はハリスさんにとって、どのような場所ですか?

 

生まれ故郷であり、今も住んでいる街なので、ものすごく思い入れがありますね。海外にはトータル18年くらい行っていたけれど、何度か日本に戻っている間もずっとここに住んでいましたね。大学時代に一度だけ、東大久保に住んでいたことがあったけれど。僕は白楽の駅のそばにある六角橋商店街が大好きで、海外から戻るとまず家に荷物を置いて、家のある丘の上から商店街に降りて来るんです。「ああ帰って来たなぁ」って思いますね。家で執筆していると、夕方の17時くらいには足がむずむずしてきます。商店街にたくさん友達がいるので、彼らの顔を見に行っては1時間くらい過ごして、また家に帰るということをしていますね。ほとんど毎日、家で書いているときはそうしていますよ。

 

Q:ハリスさんがippinで発信されている記事の中にも、白楽のことや商店街のエピソードがよく出てきますね。

 

この商店街は生きた商店街で、どこかのお店がなくなってシャッターを降ろしても、またすぐに新しいお店ができる。活性化しているんですね。夏の間には「ドッキリヤミ市」という面白いイベントをやっているし、ちょっとアンダーグランドなお店なんかもウエルカムだし。要するに商店街の組合がファンキーなんです。この雰囲気がすごく好きですね。海外へ行っても、大きな街よりごちゃごちゃした商店街的なところの方が魅力を感じる。蚤の市とか、モロッコなんかのスークを歩いていると、六角橋商店街を思い出します。

 

Q:海外という話が出てきましたが、やはり「旅」について聞かずにはいられません。ハリスさんにとっての最初の「旅」は、いつ頃どこへ行ったものでしたか?


僕は子どもの頃から歩くことが好きで、最初の旅の行き先は六角橋商店街。それから伊勢佐木町、元町、中華街、横浜全体へと行動範囲が広がっていきました。旅らしい旅といえば、中学生のときに友人と2人で初めて行った北海道。函館までは汽車で行って、その先はヒッチハイクの旅。北海道には友人のお父さんが単身赴任で札幌にいたので、そこで厄介になったり、お寺に泊めてもらったりしながら道内をまわりました。


そのヒッチハイクの旅で最後に乗せてくれたのがトラックの運ちゃんで、摩周湖方面へ向かいました。摩周湖は霧が濃く中之島が見えたらラッキーだということ、アイヌの人たちは戦いに行く前に摩周湖の崖を降りて、力水として湖の水を飲んでいたことなどを教えてもらいました。「遊歩道もあるけれど、崖を降りていくのもいいぞ」とも言っていましたね。僕たちが見た摩周湖は、幸運にも霧が晴れて中之島まではっきり見ることができました。そして遊歩道を歩きながら「崖を降りてみよう」と友人に提案した僕は「ほら、大丈夫だよ」と言った瞬間、足を滑らせて1人崖から落ちてしまったんです。


崖はかなりの急斜面で、自分はこのまま死ぬと思いました。母が泣くだろうな、もっと旅したかったのにな……と、崖を転がっている数秒間いろんなことが走馬灯のように駆け抜け「まだ死にたくない!」と両手を伸ばした瞬間、2本の木に腕が引っかかり、宙ぶらりんになった状態で止まりました。崖の上の方からは「おーい、大丈夫かー!生きてるかー?」と、友人の呼ぶ声がわずかに聞こえてきて「大丈夫なはずないだろう!助けてくれー!」と返しました。救出されるまでにかかった時間は4時間。友人は湖から町まで戻って警察に助けを求め、捜索隊が組まれました。僕の方は、体の痛みよりも心細さの方が強くて、このまま誰も来てくれないんじゃないかと不安でしたね。足は明らかに骨折しているし、自力で崖を登るのは不可能。そのとき僕が取った行動は、知っている限りの歌を歌うこと。歌う歌が尽きてしまうと、また最初から歌い直す。柔道2段のレスキュー隊のおじさんに抱えられて崖の上に戻ったときには、すっかり日も落ちていました。

 

救助された後、友人にはこのまま旅を続けるように伝え、自分は地元の病院に即入院。家に電話すると父は動転している様子で、母が北海道まで迎えに来ることになりました。すぐに来てくれると思っていたのに、母がやってきたのは4日後。実は、僕が病院にいるなら安心だと、息子が入院する病院へ行くよりも先に北海道を観光していたんです。帰りは飛行機で、窓から見た北海道の姿があまりにも美しく、「旅っていいな」と思ったのを覚えていますね(笑)。


Q:初めての旅らしい旅で、そのように壮絶な経験をしてもなお、旅への情熱は冷めるどころか強まったと。

 

しばらくは学校の夏休みを使って、国内のいろんなところへ行きました。インターナショナルスクールへ通っていたので、夏休みが2ヶ月半ほどあるんですね。大阪、鹿児島、四国、九州、与論島にも行きました。それで国内はだいたい見てしまったので、次は海外だと思うようになりました。

10代の終わりに初めての海外旅行へ

【クローズアップ】ここらでちょっと掻き回すのが自分の役割 ロバート・ハリス

Q:初めての海外への旅は、いつのことでしたか?

 

高校を卒業した次の日に出発しました。当時、男の読む雑誌といえば「平凡パンチ」しかなかった時代です。海外旅行が自由化になってまだ3年目くらいの頃で、一番安くヨーロッパへ行けるのがソビエト経由だと聞いて、横浜埠頭から一人で出発しました。それほど大きくない船の中には日本の若い旅行者も何人か乗っていました。北海道と青森の間の海峡を抜けてナホトカに到着し、そこから汽車で東の州都ハバロフスクへ向かいました。そこからはシベリア鉄道でモスクワへ。その後、サンクトペテルブルグのあるレニングラード州からフィンランドのヘルシンキに入りました。

 

当時のソビエトでは、なんとも言えない威圧感のようなものを感じました。お店に入ってもサービスどころか笑顔がない。雰囲気も暗い。ところがフィンランドに入ると明るくて緑もあって、一気に解放された気分になりました。そしてフェリーでスウェーデンの首都ストックホルムへ渡りました。実は、ストックホルムではバイトし放題、日本人はモテると書かれた「平凡パンチ」の記事を鵜呑みにしていたけれど、そうじゃなかった(笑)。現地のレストランを何軒も回って、1日かけてやっと働かせてもらえる店が見つかりました。

 

港のそばにあるシーフードレストランで、皿洗い兼ウエイターのアルバイトをする日々が始まりました。部屋を借りて、電車で店まで通う日々。平日はそこで働いて、週末になると市内のコンサートホールに足を運ぶ。そこはノーベル賞の授賞式を行うことで有名な場所で、世界中から来たヒッピー旅行者がのんびり過ごしていました。彼らの中には様々な人種がいで、オープンで話しやすく、いろんな話を聞きました。イスタンブールはいいところだ、モロッコのマラケッシュにはコミューンがある、アフガニスタンもいいよ、などね。それを聞いているうちに、「どうして自分は北欧まで来て毎日電車通勤しながらバイトしているんだろう」と思うようになり「大学には受かっていることだし、入学を遅らせてこのまま旅を続けよう」と考えました。そして最終目的地をインドのカルカッタに決めて、半年間かけてたどり着いたわけです。

 

Q:初めての海外がそれだけ長期間となり、危険な目に遭うことはなかったんですか?

 

たくさんありましたよ。砂漠でゲイのイスラム人男性に追いかけられたり、アフガニスタンではレストランのオーナーにナイフを持って追いかけられたり…。アフガニスタンの首都カブールのヒッピー宿に泊まっていたときは所持金が200ドルしかなくて、このままでは日本へも帰れないと思い、夜な夜なポーカーをやっている連中に加わって4000ドルを稼いだこともあります。面白いもので、大金を手にしてからもずっと貧乏旅行を続けました。いかに安いところに泊まるかという考えが抜けなくて…笑。

 

Q:その旅を通して、どんなことを感じましたか?

 

人生が方向づけられたというか、このままずっと旅をしていたいと思いました。でも大学には行っておいたほうがいいだろうし、日本でまた元のような生活に戻るのかと思うと憂鬱でしたね。落ち込んで過ごしていたときに「ナショナルジオフラフィック」という雑誌で『人生でやりたい100の冒険』という記事を読みました。それに感銘を受け、自分にも100くらいやりたいことはあるだろうと、書き出してみることにしました。この先大学を卒業して就職する人生を歩んだとしても、やりたいことが100あれば人生のスパイスくらいにはなるだろうと考えたわけです。

 

さっそく100のやりたいことを書き出してみると、かなり細かく書かないと100にならないことがわかりました。でもそれを書き出すことが、僕が大人になるための通過儀礼のように思えました。100書き上げたとき、人生のシナリオを書いたぞという気持ちになりました。いくら座って考えても見えてこなかった自分の将来を、100のやりたいことリストが明確にしてくれた。自分は旅に出たくて、作家になりたくて、画廊を開きたいとか、本屋をやりたいというのもありました。とにかく自分は波乱万丈な人生を歩みたくて、絶対にサラリーマンは無理だってことがわかったんです。何かから解放されたような気分でした。日本に戻って大学に行ったら本をたくさん読もう。読んで文章を書く練習をしよう。そしてまた旅に出ようと。

出会いからチャンスを掴み、出会いから人生を学ぶ

【クローズアップ】ここらでちょっと掻き回すのが自分の役割 ロバート・ハリス

Q:日本に戻ってから再び旅に出るまで、どのようなことをされていましたか?

 

大学に通って、1961年にアメリカへ1年間留学をしました。すでに思想はヒッピーそのもの。要するに旅をする自由人です。ストレートな社会の一員になるとは思っていなかったし、その時に出会った最初の妻となるアメリカ人の女性も作家志望で、ヒッピーで、旅をしたいと考えている人。大学を出たら一緒に旅に出ようと、大学最後の1年間はお互い一生懸命アルバイトをしてお金を貯めました。大学を卒業して再び旅に出るとき、両親にもう日本には戻らないつもりだと告げると、父は反対しましたが、母は快く送り出してくれました。いつかは帰ってくるだろうと思っていたそうです。そうして18年に渡る長い旅が始まりました。

 

Q:ハリスさんの著作には旅の経験を題材にした本が多くありますが、それにはどのような理由がありますか?

 

大学時代にヘンリー・ミラーやヘミングウェイなどたくさんの本を読んで、一番フラストレーションが溜まったのが「自分は何を書けばいいのだろう」ということ。それまでの旅の経験や日常のことを書けばいいのだろうけど、あまりにも高尚なテーマの小説を読みすぎて、これではダメだろうと思ってしまったんですね。でも、ヘミングウェイのようなテーマの小説を書きたい、ヘンリー・ミラーのようにボヘミアンな生活を送りながら小説が書きたいという思いは強くて。今の僕の人生には書くことなんてないけれど、だからこそ旅に出なければいけないという動機にもなりました。何気ない日常をテーマにした小説を書いている人もいるけれど、僕にとっては波乱万丈な人生ありきですね。

 

Q:ハリスさんの経歴には、オーストラリアの国営放送局で字幕翻訳をされていたとありますが、どのような経緯でそのようなお仕事をされたのですか?


旅に出た当初、中近東を放浪して得た題材をもとに、大好きなヘンリー・ミラーのようにエーゲ海の島で暮らしながら小説を書きたいと思っていました。ところが原因はわからないのですが、うつ病になってしまい、バリ島で1年間を過ごし、オーストラリアに渡ってセラピーを受けながら克服していきました。その間、いつか小説を書こうという気持ちはあったものの、100のやりたいことはまだまだ残っているので、それをこなしながら生きることに専念しました。


オーストラリアでブックストアと画廊の経営をするようになって、いろんな人種のお客さんたちと仲良くなり、その中の1人が、国営放送局で日本映画の字幕翻訳者を探していると教えてくれました。オーストラリアには様々な言語の人種が住んでいるので、世界中のテレビ番組をやっていて、そのためにそれぞれの言語を翻訳して字幕をつけなくてはならないんです。この仕事を通して、会話を書くという小説の基本が大いに磨かれましたね。


Q:日本に戻ってからのハリスさんと言えば、ラジオ番組のナビゲーターとしても有名ですが、これにはどのようなきっかけがあったのでしょうか?


オーストラリアから日本へ戻って来たときの年齢は41歳。妻子もいたけれど、しばらくの間仕事のない状態が続きました。でも時間だけはあったので、友人や知り合いに片っ端から電話をかけて、「家に遊びに来いよ」と誘ったんです。やがて月に1回20〜30人は遊びに来ているような状態になって(笑)。そんな中、ある人が「今、J-WAVEでナビゲーターを募集しているはずだから、受けてみたら?」と勧めてくれたんです。一度面接をしただけで音沙汰のない日々がしばらく続きましが、ある時電話がかかってきて、ピンチヒッターとして朝の生番組のパーソナリティーをするチャンスが回ってきました。

 

フリートークは難なくクリアできましたが、ぶっつけ本番で日本語のニュース原稿を上手く読むことができず、結果は失敗。もう声はかからないだろうと思っていたら、今度はGWの1週間、やはり朝の生番組出演の声がかかったんです。しかも、今回はホリデースペシャルと題して通常とは違う番組編成にするからニュースは読まなくていいと(笑)。その代わり、好きなことを話していいと言われたので、喜んで引き受けました。海外を放浪してきた物語を番組内で話したところ、これが評判で。ただし、朝よりも夜に向いているということで、深夜1時スタートの初レギュラー番組が決まりました。


番組は毎回ゲストを迎えながら、お酒を飲みつつ進行するのがお約束。これが好評で、毎回リスナーからの感想FAXや手紙が50通から100通くらい届いていました。そのほとんどが若者からのもので、僕が日本に帰ってきた理由として、こうやって自分が経験した物語を日本の若者に伝えていくことも一つの役割なのかなと思うようになりました。日本は僕が海外へ出たときよりも窮屈になっているところがあるから、ここらでちょっと掻き回すのが役割なのかなと。本を書いたり、トークショーや講演活動をするようになったのには、そんな理由があります。


Q:長年の夢だった作家としての活動は、どのようにして始まったのでしょうか?


ラジオ番組で毎回披露する物語は尽きることがなく、それだけの引き出しがあったということなのですが、4〜5年が経過した頃、出版社の方から「自伝を出しませんか?」と声をかけていただきました。それが最初の著作「エグザイルス」です。満を持してという感じでしたね。今までの出来事を時系列に並べて書いたものですが、あまりにも物語がたくさんあったものだから1冊では収まり切らず、オーストラリアで経営していたブックストアと画廊が倒産に追い込まれた83年で話は終わっています。


その後も十何冊の本を出してきましたが、小説は短編集「地図のない国から」の1冊だけ。今は初めての長編小説を執筆中です。実は、もとは日本語ではなく英語で小説を書きたかったんです。僕は日本語の語彙が少ないし、考え方や文章の構成も全部英語。だから最初の自伝の話がきたときに、当時日本で流行っている作家の小説を片っ端から読み漁って研究しましたね。僕が書いた原稿は、まず奥さんに最初の編集者として読んでもらう。その奥さんというのは3人目で日本人なんですけれど、おかしな言い回しがあると修正してもらって。今は日本語で書く方が得意になりました。


Q:今まで海外で食べた料理で、一番印象に残っているのはどんな料理ですか?


最初の海外旅行でスウェーデンを出たころ、所持金が少なかったので、かなりケチって毎日を過ごしていました。食事なら昼にはリンゴ、夜にはバナナという具合に。そんな中、旧ユーゴスラビアのザグレブという町で、ギリシャ人の男性がベンツに乗せて運んでくれたことがありました。彼はニューヨークでタクシーの運転手をしていて、少しお金が溜まったから、故郷ギリシャへ凱旋旅行をすると。ベンツに乗っているとみんなに自慢できるから、ドイツでベンツを買ったと話してくれました。

 

1泊2日を共に過ごし、彼がホテルに泊まっている間、僕は駅で寝て、彼が朝食を食べている間、僕はリンゴを食べたりしてたわけです。すると、そんな様子を見るにみかねたのか、彼が「黙って俺について来い」と、高級そうなレストランに連れて行かれました。彼にお金がないことを告げると、彼は「俺が払う」と。そして「お前は貧乏旅行をしているけれど、心まで貧乏になりつつある。安いところへ行けば、リンゴやバナナじゃなくて、安いサンドイッチが買える。でもお前はそれを探そうとしていない。店に行けばコミュニケーションにもなるし、現地の食文化を知ることにもつながる。1日に1回は優雅にコーヒーを飲む時間を作れ。俺がコーヒーを飲もうと誘うとお前はいつもどっかへ行ってしまうじゃないか。コーヒーなんて安いんだから、飲んで優雅な気持ちに浸れ」と。そんな説教を受けていると、いろんな料理を乗せたワゴンがやってきて、出るわ出るわテーブルいっぱいにご馳走が並べられました。彼は「それを食え」と。もうね、食べまくった。あのとき食べた料理が一番印象深いかな。それ以来、貧乏旅行をしながらも、1日1回は必ずカフェに寄って、優雅な時間を過ごすようにしました。本を読んで人々を観察しながら1時間くらいゆっくりとね。そうすることで、旅のクオリティが格段に上がったのを覚えています。

【クローズアップ】ここらでちょっと掻き回すのが自分の役割 ロバート・ハリス

Q:座右の銘はありますか?

僕は座右の銘が大好きで、世界中の座右の銘を集めた「アフォリズム」という本を出しているくらいです。僕がオーストラリアにいた頃、ブックショップが倒産して落ち込んでいたときに、店の元マネージャーだった男性が贈ってくれた「オレ達はみんなドブの中にいる。でもそこから星を眺めている奴らだっているんだ」というオスカー・ワイルドの言葉が一番好きですね。僕はドブの中にいるのが好きな人間だけど、そこからいつも星を見ていたいと思っています。


【プロフィール】
1948年横浜生まれ。作家、ラジオ・ナビゲーター。71年、上智大学を卒業後、バリ島をはじめ東南アジアを放浪。その後オーストラリアに延べ16年間滞在し、シドニーで書店&画廊の経営に携わる。オーストラリア国営テレビ局で日本映画の英語字幕を手がけ、テレビ映画製作も行う。帰国後、ラジオや著書で活躍。「エグザイルス」(講談社プラスアルファ文庫)「アフォリズム」(NORTH VILLAGE)他多数。最新刊は『世界を50年間も放浪し続け学んだCOOLで自由な人生哲学』(NORTH VILLAGE)

※掲載情報は 2016/01/08 時点のものとなります。

  • 3
ブックマーク
-
ブックマーク
-
この記事が気に入ったらチェック!
【クローズアップ】ここらでちょっと掻き回すのが自分の役割 ロバート・ハリス
ippin情報をお届けします!
Twitterをフォローする
Instagramをフォローする
Instagram
Instagram

キュレーター情報

ippin編集部のお取り寄せ

ippin編集部のお取り寄せ

"あの人の「美味しい」に出会う"ippinの編集部おすすめのおとりよせ情報を配信中。
全国の厳選されたグルメ・食品、レストランメニューをお取り寄せできるショッピングサイト「ぐるすぐり」のおすすめから、心惹かれるグルメをピックアップしご紹介しています。

次へ

前へ