ロシア革命100年

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京都の名店の上品ロシアケーキ

2014年に公開された映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』が、3月下旬に特別イベントとして2日間、2回だけ上映された。この映画は、1974年、寺山修司の「天井桟敷」に入団し、寺山の映画作品の美術や衣装を担当していた山田勇男さんが監督を務めたもの。大正時代に実在した無政府主義結社「ギロチン社」とそのメンバーたちの姿を、史実に基づきながらも山田監督らしい幻想的な映像を交えながら描いた作品である。

 

1922年(大正11年)2月、中浜晢は旧知の古田大次郎(小作人社)と再会し、同年秋、早稲田に一軒家を借りて古田らとともに「ギロチン社」を創設する。中浜はアナキスト・大杉栄が携わっていた機関紙に投稿するようになり、大杉との交流もあった。翌年、関東大震災。この混乱に乗じて、憲兵大尉・甘粕正彦は大杉栄、伊藤野枝と甥で6歳の橘宗一を憲兵隊本部に連行。厳しい取り調べの末、大杉らは殺害され、遺体は古井戸に投げ込まれた。いわゆる甘粕事件である。ギロチン社の面々はこれに報復を誓い、メンバーのひとり、田中勇之進が甘粕大尉の弟・五郎を襲撃するも未遂。ギロチン社の資金源は、企業への恐喝が主だったが、中浜は1924年(大正13年)、恐喝罪で逮捕、投獄される。一方古田は爆弾製造に精を出し、谷中の共同便所、青山墓地を爆破。来たるべき本番に備えた。9月には本郷本富士署に爆弾を投じたが不発。関東戒厳司令官・福田雅太郎宅に小包爆弾を届け、これは爆発したが怪我人はなかった。その数日後に古田と、労働運動社でギロチン社や大杉とも親交の深かった村木源次郎が逮捕。しばらくしてギロチン社の倉地啓司も捕まってギロチン社に関わった全員が逮捕、中浜と古田は死刑となった。

 

ギロチン社の面々をこうも突き動かしたのは何だったのか。先に記したように、この結社は無政府主義結社、つまりアナキスト(アナーキスト)たちのグループである。アナキズム(アナーキズム)とは「一切の権威、特に国家の権威を否定して、諸個人の自由を重視し、その自由な諸個人の合意のみを基盤にする社会を目指そうとする政治思想」であり、「近代政治思想としては、フランス革命後の1793年にイギリスのウィリアム・ゴドウィンが著した『政治的正義の研究』が著名である(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)。以後、アナキズムは幾つかの方向に枝分かれしてゆくわけだが、総じてアナキストたちの思想的なバックボーンになっていたのは社会主義思想とその発展形態である共産主義思想だ。ここでこのあたりに深く触れると長くなるので割愛するが、大雑把にいえば、富める資産家だけでなく、労働者階級などの相対的に貧しい人々が政治に参画することで平等な社会を目指す考え方であり、資本主義社会を変革していこうという試みである。これを現実のものとしたのが1917年のロシア革命だ。

 

ところで、大杉栄は甘粕事件で殺される6年前、短刀で首を刺されて殺されかかった。いわゆる「日陰茶屋事件」である。刺したのは大杉と恋愛関係にあった新聞記者の神近市子なのだが、神近は実は日本におけるロシア料理の発展に思いがけないかたちで関わっているのをご存知だろうか。

 

新宿中村屋の看板メニューのひとつ、純印度式カリーは、インド独立運動で活躍したラス・ビハリ・ボースとの関わり––––店の裏のアトリエでボースを匿い、のちにボースは中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻の娘・俊子と結婚、日本に帰化して中村屋の役員を務めた––––から生まれたものだが、もうひとつの名物であるボルシチは、ウクライナ生まれの詩人ワシリー・エロシェンコを中村屋のアトリエに引き取ったことと関係している。エロシェンコは子どもの頃にはしかで視力を失い、イギリスの盲学校で日本の按摩の話を聞いて、何の伝手もないまま日本を訪れる。1914年(大正3年)のことである。エスペラント語を習得していたエロシェンコは、日本ではエスペランティストを頼りに生活し、その普及に努めていた。東京盲学校に入学し、マッサージと日本語を覚え、かねてより精通していたエスペラント語と詩作、それから音楽(彼は盲人オーケストラで働いていたことがある)などを交えて交友関係を広げたエロシェンコは、やがて劇作家の秋田雨雀、大杉栄、神近市子らと知り合うこととなる。ちなみに大杉はエスペラント学校を開いていたほどエスペラント語に通じていた。

 

このように日本で少しずつ知り合いを増やしていったエロシェンコだが、1915年(大正4年)、秋田雨雀と神近市子がエロシェンコを相馬愛蔵・黒光夫妻に紹介した。やがてエロシェンコはひとりでも新宿中村屋を訪れるようになり、夫妻との親交を深めた。黒光がロシア文学好きだったことも関係しているのだろう。1916年(大正5年)になると、相馬夫妻はエロシェンコを中村屋のアトリエに引き取る(エロシェンコが金銭的に困窮していたため)が、数ヶ月後に東南アジア諸国への旅に出て、ふたたび中村屋に戻ってくるのは3年後の1919年(大正8年)であった。再来日後も朗読会に参加したり、黒光と合奏をしたりして過ごしながら、童話作品の執筆も行っていたエロシェンコだが、1921年(大正10年)、警官が中村屋に踏み込み逮捕されてしまう。ロシア共産党員つまり社会主義者の嫌疑で国外追放の命令が下ったためだ。この横暴な逮捕を非難して相馬夫妻は淀橋警察署長を告発。裁判所は夫妻を支持し、署長は辞職することとなったのだが、エロシェンコは中国にわたり、最終的にはロシアに帰還して中村屋のアトリエに戻ることはなかった。

 

こうした中村屋とエロシェンコとの関わりは、エロシェンコが着用していたロシアの民族衣装「ルパシカ」が店員の制服として採用された(1921年)ことからも窺えるが、1927年(昭和2年)に開設された喫茶部(レストラン)で純印度式カリーと並んでボルシチがメニューに取り入れられたのは、エロシェンコとの思い出からである。ボルシチはエロシェンコの出身地ウクライナの家庭料理なのだ。中村屋はこのボルシチ以外にも、1921年(大正10年)からはギリシア系ロシア人の職人を雇い入れてロシアパンの製造販売を開始したり、1931年(昭和6年)には、ロシア人菓子職人スタンレー・オホツキーを招聘し、ロシアチョコレートやロシアケーキの製造販売を行うようになるなど、ロシアからの人材を多数受け入れてメニュー開発に生かしている。これは黒光がロシア文学に傾倒していたことと、ロシア革命を逃れて日本に亡命するロシア人が少なくなかったという事情に起因しているのである。

 

さて、オホツキーの教えに基づき中村屋で製造販売されたロシアケーキは、ケーキの名がついてはいるが焼き菓子の一種。現在、新宿中村屋では扱いがないが、オホツキー直伝のロシアケーキ作りを引き継いでいる「館山中村屋」(1919年創業で創始者は新宿中村屋が新宿に出店する前の本郷東大前の店に勤めていた)をはじめ、いくつかの店で入手可能だ。私は先ごろ同志社大学の講義のために京都を訪れた際、「村上開新堂」にて買い求めた。村上開新堂は1907年(明治40年)、京都は寺町二条に西洋菓子舗として開業し現在も同じ場所で商いを続けている老舗である。ちなみに東京にある同名の店は京都の創業者の叔父が立ち上げたものだ。同店ホームページによれば、こちらのロシアケーキは戦後10年ほど経ってから(昭和30年代)本格的に製造を開始したということで、比較的新しい部類になるのだろうか。それでももう60年以上は経過しているが。店先に花が出ていたのでなんだろうと思ったら、3月末、店舗の奥にカフェをオープンしたそうである。

 

ロシアケーキは全部で5種類。アプリコット、レーズン、ブドウジャムサンド、ゆずジャムサンド、チョコがある。それぞれバラでも購入できるが、せっかくなので箱入り(12個)をお願いした。手際よく包装紙をかけてくれるのが心地よい。

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包装紙を解くと、ヴィヴィッドな赤いリボンにハッとさせられる。これを外すと箱が出てくる。白地に金箔押しのクラシカルで上品な佇まいである。蓋を持ち上げてようやくロシアケーキにご対面と相成る。

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整然と並んだ焼き菓子は実に美しく心惹かれる。写真でおわかりとは思うが12個入りは4種類×3個。ここにはゆずジャムサンドが含まれていないので(家に持ち帰ってから気づいた)、そちらは次の機会まで楽しみにとっておくこととしよう。

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ロシアケーキの製法上の特徴は「二度焼き」なのだそうだ。生地が二層になっているのはそのせいである。ジャムが使われているのはロシアにジャム文化が発達しているから。ジャムが添えられる「ロシアンティー」を思い起こしてもらえれば理解しやすいのではないだろうか。それからチョコレートもロシアではよく知られる菓子なので、ここでもしっかり使用されている。生地の食感はやや堅め。バターの風味も感じるが、それほど主張するわけでもなく、クドさはまるでない。これが飽きずにいただける秘訣ではなかろうか(とはいえひとつひとつはそれなりにボリュームがある)。甘さも控えめな印象だ。

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繰り返しになるが、今年はロシア革命から100年。それを気に留めているからか、最近はロシアに関連した物事に目がいく。蛍光灯を使った作品で知られるアメリカのアーティスト、ダン・フレイヴィンの展覧会(表参道「エスパス ルイ・ヴィトン東京」で開催中)に出展されている「”Monument” for V. Tatlin」は、ロシア構成主義のアーティスト、ウラジミール・タトリンと彼がレーニンから依頼されて設計したロシア革命を記念する「第三インターナショナル記念塔」へのオマージュとして制作された作品だ。あるいはタトリンやマレーヴィチとも親交のあったポーランドのアーティスト、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの晩年を描いたアンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』(6月10日より岩波ホールにて公開)では、ロシア・アヴァンギャルドに影響を受けたストゥシェミンスキについてはもちろん、舞台である第二次大戦後のポーランドがソ連のスターリニズムに徹底的に支配、管理されていた様子もひしひしと伝わってくる。また、森アーツセンターギャラリーでは「大エルミタージュ美術館展」(6月18日まで)が開催中、映画『エルミタージュ美術館 美を守る宮殿』は4月29日公開と、帝政ロシア期に設立された世界三大美術館のひとつを取り上げた展示、映画作品にも触れることができる。帝政ロシアといえば、エカテリーナ2世は客を招いての豪勢な晩餐にはフランス風の料理でもてなし、帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世の食事もフランスの影響を受けたものであった。そう考えると、大正から昭和初期に中村屋で雇い入れたロシア人の料理人たちは、ロシアの伝統的な料理だけでなくおそらくはフランス料理もある程度習得していたのではないだろうか。だとしたらロシアケーキの大元がフランス菓子という説があるのも頷ける話である。

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村上開新堂

※掲載情報は 2017/05/01 時点のものとなります。

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青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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