技術の進歩と江戸の知恵

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一子相伝の製法で作られる、江戸前の佃煮

生物学的にいえば、ほとんどの動植物にとって、方法はさまざまではあるけれど摂食=養分摂取は生命維持のための必須項目であり、これが断たれればすなわち死を意味する。それゆえ、移動して環境を変えたり、自らを環境に適応させたりすることで食いっぱぐれないようにするのである。人間も生き物であるから、太古にはそうして生命を維持していたわけだが、次第に農耕や家畜飼育が行われるようになり(それは定住が始まったということでもある)、時代が進んでそれらを加工する技術を身につける。そうして人々の舌は肥え、そしてそれを満足させるためにさらなる技術が投入されるという、終わりなきせめぎ合いが現在進行形で続いている。その意味では、人の食の歴史は、技術史を抜きには語れないといえるだろう。

 

「実際、私のように書斎にこもって暮らしている人間でも、たとえば冬のさなかに、温室づくりのレタスやブロッコリーや、さては冷凍のトウモロコシなどを食べる生活を送っていると、季節の感覚がまったく混乱してしまうのを感じることがある。現代の都市生活では、人工的な春や、人工的な夏を食べて暮らしているのではないか、とも思える。」

 

これは澁澤龍彦の「額縁のなかの春」というエッセイの一部であるが(桃源社刊『夢のある部屋』所収)、本エッセイは文化出版局『ミセス』誌上にて1969年1月号から12月号にかけて連載されたもののうちのひとつ。よって、執筆されたのは1968年から69年ということになる。この時代に冷凍のトウモロコシか、と思い、冷凍食品の普及について調べてみると、日本の冷凍事業の始まりは1920年(大正9年)。日産10トンの凍結能力を持った冷蔵庫が北海道森町に建設され、魚の冷凍を行っていたという。1930年(昭和5年)には最初の市販の冷凍食品として「イチゴシャーベー(冷凍いちご)」が登場し、戦争を挟んで1952年(昭和27年)には池袋の西武百貨店、渋谷の東急東横店に冷凍食品売り場が設置された。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、選手村の食堂でも冷凍食品が活用されたそうである。

 

「額縁のなかの春」が書かれた頃には、社団法人日本冷凍食品協会(本稿の冷凍食品に関する歴史は、こちらのホームページを参照させていただいた)が設立され、日本の冷凍食品生産量は10万トンを超えた。東京オリンピック翌年の時点で電気冷蔵庫の普及率が50%超ということだから、冷蔵庫の普及と足並みを揃えて冷凍食品産業が発展していったことがわかるだろう。高度経済成長により急速な生活スタイルの変化が生じ、「人工的な春や、人工的な夏」が食卓に上るようになった。ちなみに『夢のある部屋』の前半を占める『ミセス』での連載エッセイは、雑誌掲載時は「環境のイメージ」という通しタイトルがつけられており、当時の環境の急速な変化=アメリカ的な大量生産大量消費を批判的に捉えながら、かつての日本とそれまで日本が影響を受けていたヨーロッパの持つ豊かさを、澁澤らしいディレッタントぶりで記したものである。それゆえこの連載エッセイは、1968、9年頃の生活史、社会史、風俗史としても読むことができる。

 

現在、スーパーに行けば冷凍食品はもちろん、さまざまな野菜や果物、魚介類などが本来の旬の時期でなくとも手に入る。季節に関係なく、いつでも美味しいもの、好きなものを食べていたいという欲求は、生命維持のための栄養摂取とは別の次元の話であるが、そうしたことと一見相反するような傾向、すなわち旬の時期に旬のものをという流れも存在しているのは多くの方の感じるところではないだろうか。この傾向は現象だけ見ると「あの頃はよかった」というノスタルジーに彩られたもののようだが、それよりも、いつでも何でも揃う現代において、より美味しいものを求めた結果、そこに行き着いたという方が的を得ているように思う。さらに先のレベルの美味しさを追求したら時代が逆戻りしてしまった、というような。もちろんそんなことは意識していない人の方が多いだろうけれど、この倒錯感は現象としてはなかなか面白い。加えていうならば、旬のものを食べると長生きするというような言い伝えもそこには多少影響していそうであり、そうしたことから日本人の信心深さも窺い知ることができるのではないだろうか。

 

さて、ではこれからの季節の旬といえば何であろう。野菜では新玉ねぎ、菜の花、クレソン、ニラなど。魚なら白魚、さより、鯛なんかもいいようだ。充実しているのは貝類で、青柳、ハマグリ、アサリと並ぶ。1969年(昭和44年)に初版が出た『東京生活歳時記』(社会思想社編、刊)の3月の「つり」の項目を見てみると、「今年(昭和44年)の春は、さかんにアサリが、江戸川河口のデルタ地帯、三枚洲のほうでとれたのである。東京の浅草橋や柳橋からも、砂町や千葉の船橋、浦安からも舟がたくさんでて、春風に脛をなでられながら、アサリをほる人でいっぱいだった」とある。高度経済成長の真っ只中、決して水質もよくなかったであろうに、潮干狩りでアサリがザクザクというのには驚くばかりである。ちなみに三枚洲とは、現在の葛西臨海公園の沖合にある自然干潟のことだ。

 

前述の『東京生活歳時記』では、浅草橋や柳橋から舟がでて、とある。柳橋は神田川が隅田川に注ぐ地点に架かる橋、浅草橋は神田川の柳橋から数えてひとつ上流にある橋である。このあたりから舟で三枚洲まで出るのだと、隅田川から小名木川に入り、旧中川経由で荒川を下って行ったのだろうか、定かではないが、いずれにしても荒川沿いの砂町や東京湾からほど近い浦安、船橋よりは幾分か手間のかかるルートであるのは間違いなさそうだ。では、なぜそうした手間をかけてまでアサリを採りに行くのかといえば、浅草橋、柳橋でアサリが必要だったからだろう。もちろん自給用ではなく、商うためである。

 

浅草橋と柳橋には、それぞれ「鮒佐」、「小松屋」という佃煮屋の老舗がある。「鮒佐」は1862年(文久2年)、「小松屋」は1881年(明治14年)創業である。浅草橋は、城門の外側の門であり番を置き通行人を監視した江戸城三十六見附のひとつ、浅草見附が置かれたところ。この見附門は浅草寺に通じるため浅草御門、浅草口とも呼ばれ、浅草橋は浅草と日本橋をつなぐ道(現在の江戸通り)のあちらとこちらを区別する門前橋として重要な存在であった。一方の柳橋は江戸中期から花街として知られており、川沿いという恵まれた立地を生かして東京オリンピックの頃まで栄えていたという。徒歩でも数分の距離にある浅草橋と柳橋だが、今回は浅草橋の「鮒佐」で佃煮を買い求めることにした。「鮒佐」の佃煮は、この1店舗でしか買えないのだ。

 

ご存知のように佃煮は佃島が発祥の地だが、もともとは塩煮だったそうだ。「鮒佐」のホームページによれば、下総国船橋出身の大野佐吉は千住の名物「鮒のすずめ焼き」などを商っていたが、あるとき隅田川河口に釣りの出た際、暴風雨となって佃島に避難した。そこで塩煮の佃煮と出合った佐吉は、それを独自に改良し、いくつかの素材を分けて用い(以前までは小魚全般だったようだ)、当時まだ庶民には普及していなかった醤油を使って味付けをした。現在わたしたちが知る佃煮の原型の誕生である。

 

今の佃煮の原型については諸説あって、「江戸時代には、この島(引用者註:佃島のこと)は交通不便だったので、しけのときには副食物が不足することも多く、また、出漁時には腐敗しない食べ物が必要なこともあって、白魚やハゼ、アミ、小エビなどを醤油で煮つめ、〈佃煮〉を考案した」(興津要『江戸小咄散歩』)という記述もあるが、大野佐吉が相当早い時期に醤油で煮た佃煮を考案していたことは間違いのないところだろう。

 

「鮒佐」の佃煮は、一子相伝の製法に則り、主人自ら釜を薪で熱して作られる。秘伝のタレは関東大震災と第二次世界大戦により失われたが、戦後から現在まで継ぎ足し継ぎ足して使用されてきたものだ。驚くべきは、味見をしないで煮立ってきた素材の色や沸き立つ気泡の状態によって判断し釜から素材を引き上げるというところ。店舗の奥で主人が作ったものを浅草橋の店だけで売るという姿勢は、前述の製法を見れば納得であろう。

 

佃煮は、昆布、ごぼう、アサリ、海老、しらす、穴子が通年であり、秋限定で小ハゼが加わる。それぞれ50グラムから売ってくれるが、曲げ物に5種類が詰め合わせとなったものをお願いした。

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注文を受けたお店の人は、横の棚から容れ物を取り出し、それを携えて一旦奥に引っ込む。あらかじめ用意しておくのではなく、注文後に詰めるのだ。待つことしばし、包装紙がかかった状態の曲げ物を手提げに入れて持ってきてくれる。容器のサイズは曲げ物も折詰も1号から9号まで揃っているので、人数や用途に合わせて選ぶことが可能だ。

 

外の包装を解くと、もう一枚掛け紙が。こちらには、初代佐吉の頃、すなわち江戸時代の白魚漁の様子が描かれている。これを解いて、蓋をあけると、佃煮がぎっしり詰まっているのである。

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色から想像がつくように、かなりしっかりとした味付けの「鮒佐」の佃煮は、巷によくある甘辛いものとは異なり、しょっぱさが勝っているので、少しずつ食すのがいいだろう。白いご飯はもちろんのこと、お茶漬にも合いそうだ。このしょっぱさ、今の時代には不似合いなようにも思われるだろうが、その出自を考えれば合点がいく。なにしろ、電気冷蔵庫などない時代の保存食であり、また額に汗して働く漁師たちにとって、塩分補給は死活問題でもあった。要はしょっぱくなくてはならなかったのである。そんなわけで、現代にいただくならチビチビとで十分。落語『庖丁』よろしく佃煮をアテにお酒というのもいいだろう。これからの季節が旬のアサリは通年取り扱いがあるが、旬気分を味わいながら江戸の人の知恵と技術に思いを馳せて一口。酒が進むので飲みすぎには注意されたい。

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※掲載情報は 2016/02/29 時点のものとなります。

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キュレーター情報

青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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