狐の嫁入りといなり寿司

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2月にこそ食したい、いなり寿司のあれこれ

辿り着けない料理屋の話や、画に描いた餅を食べる話、はたまた自宅でロビンソン・クルーソーさながらの無人島生活を強行する話。種村季弘『食物漫遊記』(筑摩書房)は、こうしたいわば人を食ったような話を集めた、素晴らしいエッセイ集なのだが、このなかに「狐の嫁入り」という話がある。

 

芝愛宕山のアパートに独身住まいをしていたとき、隣の部屋におじいさんと二人暮しをしているお京さんという女性が狐に憑かれた。あるとき発作に見舞われ、お京さんは病院へ。入院により新橋だか銀座だかの喫茶店のウエイトレス職を失い、退院後はなにをやっているかは分からないが夜遅くに出かけて朝に帰ってくるようになった。

 

狐が正一位という高い位の使いとされる稲荷神は、もともと農業神であったが、江戸時代に入ると商売繁盛の神とも考えられ、稲荷神社も急増した。ちなみに総本社は京都の伏見稲荷大社である。この稲荷神社で2月の一の午の日、二の午の日(あれば三の午の日)に五穀豊穣、商売繁盛を願って盛大に行われる祭りが「初午」だ。そうしたことから、狐の好物とされる油揚げを使ったいなり寿司は2月の食べ物、行事食として知られている。

狐の嫁入りといなり寿司

江戸時代、天保期の終わり頃、味付けした油揚げに豆腐殼あるいは酢飯に刻んだ椎茸、干瓢を詰めて屋台で売られていたのが現代のいなり寿司の元といわれているが、神田・淡路町の「神田志乃多寿司」は1902年(明治35年)創業。当時は箱車でいなり寿司や海苔巻きを配達していた。包装紙には学芸大学の洋菓子店「マッターホーン」の包みやパッケージの絵で知られる鈴木信太郎の、折りの蓋には『週刊新潮』の表紙絵が有名な谷内六郎の絵がそれぞれ採用されているが、これは二代目の時代から用いられているという。

 

甘めに煮た油揚げのなかには、口にするとほろほろと崩れて味が広がる酢飯とシャキシャキした食感も楽しい蓮根。普通のいなり寿司のほか、創業した頃の油揚げを再現した、大ぶりの「昔いなり寿司」もあって、こちらの方がやや甘みを抑えてある印象である。いなりの味を引き立たせるガリは滅法辛口なので、お子様に与える際はご注意あれ。

狐の嫁入りといなり寿司

冒頭で触れた「狐の嫁入り」では、お京さんの奇態の一方で、種村が自分で食べようと買ってきて共同の炊事場に置いておいた油揚げや豆腐が次々となくなるということが起こったとある。狐憑きのお京さんが油揚げをかっさらっていったならまだしも、お京さん不在の折にもなくなるので、おかしいと思ったらお京さんのおじいさんが失敬していたという話なのだが、おじいさんが「油揚げはお京の好物だがな」と孫の狐憑きを上手く利用して食料をくすねているのがなかなかおかしい。

 

それから、いなり寿司でもうひとつ思い出されるのが、武田百合子『日日雑記』(中公文庫)の五目セットといなりきしめんセットのくだりだ。この「追記」には、いなり寿司のあとのコーヒーがいかにものすごい味になるかが記されていて、わたしはいなり寿司を食べるたびにこれを思い出し、ちょっと笑ってしまう。

 

一年中食べることのできるいなり寿司だが、2月のうちに一度は味わってみてはいかがだろう。節分に大口あけて恵方巻きを頬張るよりはだいぶいい。近くに稲荷神社があるようなら、お参りもお忘れなく。

※掲載情報は 2015/02/20 時点のものとなります。

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キュレーター情報

青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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