食べ物の味を拡張する魔法ー谷崎潤一郎「美食倶楽部」

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冬にこそ輝く、今川焼の魅力

愛食家(美食家ではなく)を自認する人にぜひ読んでいただきたいのは、谷崎潤一郎の「美食倶楽部」だ。谷崎というと、「痴人の愛」や「細雪」、「春琴抄」を思い浮かべる方が少なくないだろう。あるいは、永井荷風が激賞した最初期作品「秘密」を挙げる人もおられるかもしれない。谷崎は、明治、大正、昭和にまたがって活躍した作家であるが、一般によく知られている作品は昭和に入ってからのものが多く、大正期の作品は「痴人の愛」を除いては比較的マイナーな存在といっていいだろう。「美食倶楽部」は、そうした大正期の作品である。

 

ちくま文庫の『美食倶楽部 谷崎潤一郎 大正作品集』によれば、「美食倶楽部」の初出は、大正8年(1919年)1月から2月にかけての大阪朝日新聞の連載。同じく大正期の作品を編んだ、講談社文芸文庫の『金色の死 谷崎潤一郎 大正期短篇集』の年譜の大正8年を見てみると、「美食倶楽部」のほかに「母を恋ふる記」、「蘇州紀行」、「呪はれた戯曲」、「富美子の足」、「或る少年の怯れ」を執筆しており、実に精力的だ。

 

「富美子の足」で足の描写に数ページも割いた谷崎だが、「富美子の足」が足フェチなら、「美食倶楽部」は食フェティシズムとでも呼ぶべき人々が登場する物語である。美食倶楽部の会員は5名。彼らは「賭博を打つか、女を買うか、うまいものを食うよりほかに何らの仕事をも持ってはいなかった」。会員たちは、東京中の美味いものを食わせる料理屋はもちろんのこと、鯛茶漬けを食べに大阪へ、河豚が恋しくなったら下関へと、暇と金に任せて遠征すら厭わずに出かけてゆく。料理を芸術のうちでも最も崇高なものと考え、素晴らしい音楽が聴く者に霊的な次元での感動を与えるのと同じような、あるいはそれを超越する料理を日夜探し求めていたのである。

 

この倶楽部の一員、G伯爵がある晩、会員たちとの饗宴のあとにひとり散歩に出た。「伯爵は何だか自分が近いうちに素晴らしい料理を発見するに違いないような気がしていた。それで今夜あたり表をぶらついたらば、どこかでそんな物にぶつかりはしないかという予覚に促されたのである」。伯爵は、倶楽部の会場となっている駿河台の自邸を出て、今川小路の方へと向かった。神田駅近くの白幡橋架道橋下に現存する飲屋街を「今川小路」というが、ここにはかつて竜閑川(龍閑川とも)が流れており、それが戦後に埋め立てられガード下の闇市となって発展していったものである。作品執筆時にはまだ現在の今川小路はなかったはずなので、文中に出てくるそれは位置的には若干異なるかもしれないが、今川橋周辺、現在の千代田区鍛冶町あたりであろう。ちなみに神田駅の高架ができたのは大正8年(1919年)1月。「美食倶楽部」の連載が始まったのと同じ月だ。


話がやや横道に逸れたが、G伯爵はその卓越した嗅覚でもって、「浙江会館」という看板のある木造3階建ての西洋館に辿り着いた。中国・浙江省の人々が集うこの建物で供されていた料理を見聞きする(伯爵は実際には食べられなかった)という体験を通じ、G伯爵は美食倶楽部の会合を別次元に導くような料理を拵えることに成功するのだが、その委細はぜひ小説をご一読いただきたい。簡潔にいうなら、伯爵の出す料理は「舌をもってその美食を味わうばかりでなく、眼をもって、鼻をもって、耳をもって、ある時は肌膚をもって味わわなければならなかった」のである。

 

この小説のなかに登場する料理は、美食とはいいながらどれもあまり美味そうには描かれていない。むしろ人によっては顔をしかめるようなものですらあるのだが、フェティシズムとは往々にしてそういうものではないだろうか。「然るにお富美さんの足の甲は十分に高く肉を盛り上げ、五本の趾は英語のmと云う字のようにぴったり喰着き合って、歯列の如く整然と並んで居ます。しんこを足の形に拵えて、其の先を鋏でチョキンチョキンと切ったらばこんな趾が出来上るだろうかと思われるほど、其れ等は行儀よく揃って居るのです。(中略)細工の巧い職人が真珠の貝を薄く細かに切り刻んで、その一片一片を念入りに研き上げて、ピンセットか何かでしんこの先へそっと植え附けたら、或はこんな見事な爪が出来上るかもしれません」(「富美子の足」)。この富美子の足の描写は、「美食倶楽部」の料理の描写と同質のものと考えていいだろう。その気がない人にとっては思わず笑ってしまいそうになる、あるいは美しいと思えないような表現に美しさや快感を見出すのは、フェティシストの常であり、谷崎にとっては「美も快楽も、それとは正反対のものから出発して到達される彼処なのだ」(『美食倶楽部 谷崎潤一郎 大正作品集』種村季弘による解説より)。


G伯爵の体験により、「美食倶楽部」の料理は、全身、全感覚を動員して味わうものとなった。それまでは「味」に主眼を置かれていた料理が一気に拡張したわけだ。食フェティッシュならではの常人では考えられない料理、ということをひとまず置いておけば、この拡張はとりたてておかしなものではない。我々も、器、盛り付け、照明、気温その他諸々で食べ物の美味しさが変わることはよく理解しているはずである。

 

ところで、「美食倶楽部」の冒頭にちょっと面白いエピソードが書かれている。誰も知らない美味いものを探し出そうと躍起になり、考えを巡らせすぎて「会員の一人は銀座四丁目の夜店に出ている今川焼を喰ってみて、それが現在の東京中で一番うまい食物だということをいかにも得意そうに、発見の功を誇りがおに会員一同へ披露した」というくだりだ。聞いた一同はぽかーんとなったに違いないのだが、こうなってしまうのはわからなくもない。珍奇なものを求め、色々考えた末、やっぱりシンプルが一番! のようになることは、私たちの身の回りでもよく起こることであろう(それが正しい選択かどうかはまた別の問題である)。


三軒茶屋のキャロットタワー、世田谷線の改札のすぐ近くにある「かしわや」は、かれこれ30年以上、つまりキャロットタワーが出来る前から三軒茶屋で今川焼を商っている店だ(正確には、立ち食いそばの店の売店で今川焼を販売している)。もう冬がすぐそこまで来ていることを実感したある日、こちらで今川焼を買った。小倉、クリームといった定番のほか、中身が時期によって変わるものもあるが、ベーシックに小倉、クリーム、チーズクリームの3種を選んだ。簡素な紙袋に入れくれた今川焼を受け取ると、温かさが手のひらに伝わってきた。

食べ物の味を拡張する魔法ー谷崎潤一郎「美食倶楽部」

「かしわや」の今川焼は持つとずっしりと重い。餡が目一杯入っているのだ。表面には「おぐら」「クリーム」などと焼印が押してある。皮は弾力というかもっちりとした腰があって、それ自体も程よく主張していて嬉しい。小倉は粒立ちがあってくどくない甘さ、クリームはとろみのある濃厚な味わい、チーズクリームはふわっとしたホイップ感と、それぞれに個性が感じられる。先にも記したように、餡がぎっしり詰まっているので、ひとつでもしっかりとした腹持ちである。

食べ物の味を拡張する魔法ー谷崎潤一郎「美食倶楽部」

夜店の今川焼を推した美食倶楽部会員は、それを冬に食べたのではなかったか。寒さ厳しい冬の夜、買いたてを頬張る美味さは格別だ。ぬくぬくと暖房の効いた室内よりも、寒い屋外でこそ今川焼は輝きを増す。美味しさ(あるいは不味さ)は、実に曖昧なものであるが、料理や食べ物そのもの以外の様々な要素をコントロールして、食べ物の潜在的なポテンシャルを最大限に引き延ばすことはできる。G伯爵はいう。「私の意見をもってすれば、真の美食を作り出すのには、魔法を用うるよりほかに道がないと思うのです」と。料理、食べ物以外を自在に操り、美味しいものをさらに美味しくしてしまう魔法はしかし、食べながら片手をスマートフォンに捧げてしまっている人には、永遠に訪れない。今川焼でいえば、飛び切り寒い日に両手でその温かさを感じながら、冷めないうちにガブリといくのがいいだろう。口中のやけどにだけご注意あれ。

食べ物の味を拡張する魔法ー谷崎潤一郎「美食倶楽部」

そういえば、G伯爵がひとりで駿河台の邸宅から向かった今川小路、つまり今川橋のあたりは、江戸時代には今川氏が治めていて(今川橋は、天和の頃の名主・今川善右衛門が架けたことからその名が付いた)、この界隈で出していた、餡を小麦粉生地で包んで焼いた菓子を地名にちなんで「今川焼」と呼んだことからその名称が浸透した、という説もあるそうである。

今川焼

かしわや 東京都世田谷区太子堂4丁目1−1 キャロットビル101

※掲載情報は 2015/11/27 時点のものとなります。

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キュレーター情報

青野賢一

BEAMSクリエイティブディレクター

青野賢一

セレクトショップBEAMSの社長直轄部署「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターも務める。執筆、編集、選曲、展示やイベントの企画運営、大学講師など、個人のソフト力を主にクライアントワークに活かし、ファッション、音楽、アート、文学をつなぐ活動を行っている。『ミセス』(文化出版局)、『OCEANS』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)、『IN THE CITY』(サンクチュアリ出版)、ウェブマガジン『TV & smile』、『Sound & Recording Magazine』ウェブなどでコラムやエッセイを連載中。

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